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You Like Bohemian─小林秀雄(6)(2004)

六 自己という統一性
 小林秀雄は、逆説的に、人間的なるものに関して、それがあたかも歴史的事実であるかのように語ることも少なくない。逆説は自意識を高めていく。高みに上昇したかと思うと、それを瞬間的に転落させる。「自意識の球体」からの脱出をこのように企てる。逆説は「宿命」の自覚による自意識の休止である。自意識は否定的自己認識をもたらす。小林秀雄は自意識の危機を敏感に感じ、むしろ、過剰な自意識を「自意識の球体」を脱出する創造的エネルギーに変換する。自意識の力は厄介であるが、それを創造的エネルギーに変換できるものが「天才」と呼ぶにふさわしい。若くしてデビューした作家の多くが実質的に一作か二作で文学的寿命を終えてしまうのは、彼らが自意識に対する恐怖心を描き、その自意識への対処に行き詰まってしまうからである。

 歴史的変化は自意識の危機を誘発する。歴史の必然は外的にあるのではなく、内的に自己に働きかける。歴史は自意識と不可分の関係にあり、自意識の根源的な意味を持っている。それは「自然」としての自意識の継承である。歴史は物語でも、年代記述でも、プログラムでも、黙示録でも、自由に関する意識の発展でもない。隙間だらけのエッセーは歴史と称して神秘化=脱神秘化の過程を時間的連続として描くことはない。

 アカデミックな学問的手法は形式にだけとらわれて、自己を単純化・体系化してしまい、そのあるがままの姿を見失わせてしまう。小林秀雄は学問的な意義を持つ結論を放棄して、自己にとどまり続け、作品を終わらせる。伝統的道徳哲学の体系には嫌悪しか覚えない。彼は対象の全認識を記述することを諦め、自己観察の試みから逸脱しないことによってある種の厳密さを維持している。学問的に論じられる自己はいずれも自己の一部にすぎず、その方法論によって扱われた自己は全体性とうまく合致しない。自己は認識論的対象だけではなく、倫理的・実践的対象であり、自己認識以上の学問など彼にはない。自分の内的経験や実際的生活を対象にあてはめ、すべての事象は、自分の体験を一度通ってから、批評される資格がある。歴史的・社会的認識は自己の経験を顧みることが初動原理である。

 抽象的な方法論や生硬で難解な用語は倫理と認識を切り離してしまう。小林秀雄は抽象化・専門化に対して具体的・日常的方向を志向し、そんな党派のためにも批評を書かない。また、自己を認識するには学問的知識だけでは不可能であるから、彼は「分析」に無関心と無知を装う。

 作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。しかも不完全な結果である、だが批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。しかも完全な原因である。(略)又、社会のある生産様式がある作品を生むと見る時、その批評家にとって作品とは或る社会学的概念の結果である。ここに社会的批評と芸術的批評との間の越え難い溝があるのである。
(『アシルと亀の子Ⅱ』)

 凡そ作品というものの唯一の興味はその出来栄えにある。(略)作品の出来栄えを最大の関心事としない文士は、如何なる社会状態に於いても、文士たる存在理由はないのである。
(『アシルと亀の子Ⅴ』)

 人は様々な思想に準じて様々に文学作品を解釈するが、先ず無私な文学的イリュウジョンを一様に強いるものは、作品そのものの力だ。それはこの力を分析しようとかかるから、曖昧に思われるだけの話で、事実私達はこの力を感じて疑わないし、この力によって鑑賞という事実が成り立っているのだ。(略)ここに故意に問題を捜り出そうという処に近代批評の方法論化した弱みがあると考えるのは乱暴であろうか。
(『文芸時評』)

 小林秀雄は近代特有の発展的思想形成を事後的に破棄するべく、発表した後も、しばしば作品を書き改める。彼は作品の中に自らの探し求めるものを発見している。小林秀雄は古典を読む際、その作品を生み出した歴史的・社会的状況や個人的境遇、ものの考え方に身を置くことはしない。彼は作品を吟味し、「出来」という名の孤立したある領域に囲いこむ。それは自己という統一像である。どんなに拡散した記述をとりながらも、彼はこの統一性を獲得する。自己を追及する方法は自己を所有することへと導かれる。彼は多様な声に耳を傾けながらも、やはり一つの自己を維持し続ける。自己が一つであることは彼にとって真実である。改稿はそういった自己認識がもたらしている。

 文体がパンクを体現しているのみならず、『感想』や『本居宣長』といった小林秀雄の晩年の作品群にもパンクへの志向が明確に見られる。母親の死後、何度か霊的な体験をしたことをモチーフにした『感想』はスチーム・パンクにほかならない。

 この『文学界』グループの代表者は、座談会『近代の超克』において、「歴史人や社会人を仮面的なものと見て、純粋な知覚の分析から、まっすぐに形而上学を作って行くやり方。ベルグソンは一時流行したが、もう一度真剣に読まれる時が、我が国で屹度来ると考えています。果敢ない夢だね。我々近代人が頭に一切詰め込んでいる実に厖大な歴史の図式、地図、そういうようなものは或る実在に達しようとする努力の側から観ると、破り捨てねばならぬ悪魔だね」と言っているが、『感想』はそのアンリ・ベルグソンを論じた作品である。とは言っても、『感想』は『新潮』一九五八年五月号から連載が始まったものの、一九六三年六月号の第五十六回終了をもって連載が中断される。

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