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なぜ兵士は敵を撃てないのか(2018)

なぜ兵士は敵を撃てないのか
Saven Satow
Sep. 03, 2018

「死ぬまでの時間を、思うままに過すことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有であった」。
大岡昇平

 大岡昇平が自らの兵士としての体験に基づいた『俘虜記』(1948)は主人公の「私」の自問から始まる。それはなぜ米兵を撃たなかったのかである。殺し合いの戦場で、敵兵に遭遇し、可能であったにもかかわらず、小銃の引き金を引けない。

 主人公はその理由について次のように内省している。

 最初私が米兵を見た時、私は確かに射とうと思わなかった。しかし彼があくまで私に向って前進を続け、二間三間の前に迫って、遂に彼が私を認めたことを私が認めた時、私はなお射たずにいられただろうか。
 私は自然に銃の安全装置をはずした手の運動を思い出す。してみればこの時私が確実に私の決意を実現し得たのは、ひたすら他方で銃声が起り、米兵が歩み去ったという一時に懸っている。これは一つの偶然にすぎない。
 私の決意に照して見れば、この時の私の行為は完成されていない。従ってそれに関する私の反省も当然未完成たるべきである。しかし私は一応私の決意が何処まで私の行為を導き得たかを、この時の私の心理に求めずにはいられない。
 米兵は私の前で約十間歩いた。恐らく一分を越えない時間である。その間私が何を感じ何を考えたかを想起するのは、必ずしも容易ではないが、有限な問題である。

 主人公にとって、このような状況に置かれたことは「一つの偶然にすぎない」。ここで彼は「一つの偶然である」と言っていない。「一つの偶然にすぎない」は偶然以外のことがないという意味だ。そうなるべき必然的理由などなく、他の状況もあり得る。物事は絶対的ではなく、相対的である。

 一方で、この内省には「私」が日本語の文章としては不自然なまでに頻出する。これは局面における主体的判断の確認の効果がある。主人公は、コンテクストに依存するのではなく、その認知行動があくまで主体にとってどうであったかを自問自答している。それは誰の認知行動かと問い、他ならぬ「私」のものだと答える。この出来事における主体の認知行動を暗黙の裡にせず明示化することが「私」の頻出をもたらす。

 他の状況であったならば、主人公が同じ選択をしたかどうかわからない。しかし、「一つの偶然にすぎない」その時には、引き金を引かなかったことを選んでいる。必然性による認識を斥け、それを「一つの偶然にすぎない」と考える。だが、そこでニヒリズムに陥ることなく、局面における主体的判断の可能性を探る。米兵を撃たなかったことはまさにそれである。この自問は『俘虜記』全体に貫かれる主題だ。のみならず、大岡文学を考察する際に、不可欠なものである。

 主人公が対峙した米兵がそうであったかはわからない。しかし、第二次世界大戦で接近戦を体験したアメリカ兵のうち、実際に敵に向けて銃を撃ったのは5人に1人である。多くの米兵は主人公と同様の行動をとっている。

 元米陸軍士官学校心理学教授デーヴ・グロスマン(Dave Grossman)の『戦争における「人殺し」の心理学(On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society)』(1995)によると、戦場における兵士にとって最大のストレスは殺されることの恐怖ではなく、殺すことに対する抵抗感である。もし殺せば、その記憶に苛まされることになる。しかし、殺さなければ、それにより戦友が命を落とすかもしれない。いずれの場合でも、その兵士には罪悪感が生じ、一種のモラル・ジレンマである。グロスマンはそれを「兵士のジレンマ」と呼んでいる。

 この抵抗感をリサーチしたのがリチャード・マーシャル米陸軍准将である。彼は太平洋・欧州戦線で接近戦を経験した兵士にいつ、何を撃ったのかについて聞き取り調査を実施する。大勢の兵士がわざと狙いを外したり、あさっての方向を撃ったりしていて、実際に敵に向けて引き金を引いたのは15~20%である。生きるか死ぬかの状況で多数の兵士が良心的兵役拒否を選んでいる。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」は本質的問いではない。「なぜ人を殺せないのか」が実際にはそうである。その理由としてグロスマンは同種殺しへの抵抗感としている。人間は至近距離で人を殺せるようには生まれついていないというわけだ。確かに、人間に限らず、集団生活をするヒトは争っても、同種殺しをしない。しかも、殺人はすべての共同体において最大の禁忌である。人は幼い頃から命を奪うことがいかに規範に反しているかが教育されている。

 発砲率の低さに衝撃を受けた軍は訓練を見直す。その際、心理学の知見を利用、行動主義のオペラント条件付けを射撃訓練にとり入れている。標的を従来の丸型から人型に変更、それが目の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる仕掛けにしている。この刺激=反応を繰り返していうるうちに、行動が身体化される。敵が現われたら、考えずに撃てるようになる。さらに、動機付けを上げるため、軍は訓練で好成績を収めると、休暇が3日増えるなど褒美も用意している。

 また、軍は新兵に敵が自分たちと同じ人間ではないと洗脳する。同じ人間だと思うと、敵を撃てないのだから、そうではないと差別意識を持つようにすればよい。「鬼畜米英」の要領で敵を見立て、新兵に教えこみ、発砲の罪悪感を消し去る。

 顔が見えない距離であれば、殺人の罪悪感は軽減するだろう。しかし、いくら技術革新が進んでも、戦争がある限り、接近戦はなくならない。非対称戦であれば、なおのことそれは不可避である。

 訓練の変更の結果、米兵の発砲率は朝鮮戦争で50~55%、ベトナム戦争には95%前後まで上昇する。敵に向けて銃を撃つことを躊躇する兵士は戦争の度に減っていく。心理学は、人殺しを作るために役立ったというわけだ。

 ただし、軍の訓練は殺人鬼ではなく、殺人機械の製造のために行われる。情感が命令しても引き金を引かない兵士をそれに従って行動するように変えるのが目的である。命じてもいないのに、発砲する殺人狂を生み出すことではない。

 軍隊組織は上意下達のヒエラルキー構造をしている。軍人はミクロからマクロに至るまでその秩序によって把握し、局面における主体的判断を必要としない。彼らの言語は命令文が中心である。それは、コンピュータ・プログラム同様、具体的指示であり、曖昧さは許されない。上官が部下に「可能なようであれば、撃て」などと言わない。そのような主体的判断を求めることなどせず、ただ「撃て」と命じる。これが軍隊である。

 『俘虜記』は戦場を知る作家ならではの小説である。主人公が思い悩むのは殺される恐怖ではなく、殺すことに対する抵抗感である。ただ、彼は「兵士のジレンマ」に囚われない。引き金を引かなかったことで、人を殺さずにすんだとほっとしていないし、後悔もしていない。「一つの偶然にすぎない」状況での主体的判断と認知している。この理解が『俘虜記』を戦争文学の極北にしている。

 しかし、その行動は軍隊にとって望ましくないものである。殺人を命令しても、それ実行するのは兵士個人である。人間はもともと人を殺せない。自分が殺されるかもしれない戦場においてさえそうだ。軍は個々の兵士の内面をうかがい知ることなどできない。そのため、心理學を利用してそれを操作する。戦争は組織による個人の内面の支配によって可能になる。

 戦争というものはいつでも、なかなかきそうな気はしないんですよね。人間は心情的には常に平和的なんだから。しかし国家は心情で動いているのではない。戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。強行採決につぐ強行採決、……の政府のやり方を見ていると、いつどういうことが行われるかわからない。権力はいつも忍び足でやってくるのです。
  (大岡昇平『戦争』)
〈了〉
参照文献
大岡昇平、『俘虜記』、新潮文庫、1978年
同、『戦争』、岩波現代文庫、2007年
デーヴ・グロスマン、『戦争における「人殺し」の心理学』、安原和見訳、ちくま学芸文庫、2004年

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