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生死一如

「生死一如」という言葉がある。「生」と「死」とは全く違うもののように見えるが実は表裏一体という意味だ。

この言説が昔からなんとなく納得できずにいる。だって生は主観でも客観でも実感できるけど死は主観では実感できないじゃないか。なぜなら「死んだ」という実感がある時点で意識があるのだから。

そういう意味では、僕らはいつか死ぬのに第三者の死しか体験することができないパラドクスが起きているのはなんだか不思議に思う。

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よく考えると生きているって凄く不自然だ。
食事をする、病気を防ぐ、襲われない…。書き並べていたらキリがない要素があってはじめて生を続けられる。

何もしていなければ何事もないかのように生きらない僕らはある意味この瞬間も死に続けているのかもしれない。
だからこそ僕らは生きたい(あるいは死にたくない)、なんて欲求を持ち続けるし社会もそれを促進させているのだろう。生を1人で続けるのは難しいしね。

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その癖ぼくらは生きている不自然さも日常に紛れてなんだか特別じゃないように感じてしまう。そして訪れる死を迎え、また悲しむんだ。
どれだけ伝えたって苦しくて寂しくてそして後悔するんだろうな。

どれだけ仲良くたって。
昨日まで話していたって。

時折フラッシュバックしたようにふざけて作ってくれた唐辛子入りチョコレートの味やまぶたを閉じた優しい顔、そしてひっそりと校長室で行った卒業式が頭を巡ってしまう。中学時代からこんなに時が経っているのにね。
そして今夜も痛みと救いを求めて目を瞑るのだ。

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