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生死生命論「国枝史郎の死生観」

国枝史郎の「神州纐纈城」は、武田信玄と上杉謙信との確執の中、異常なる纐纈城主、新興宗教の教祖との対立の中で異常なる人々の残虐なる本性を描きながらも、そこには興味深い哲学的ともいえる作者の「ある思い」が込められて書かれている。以下に「纐纈城」から僕の好きな部分を抜粋してみる。この部分だけでも作者の生命に対する「ある思い」が伝わってくる。

『生物を殺すということは罪の中の罪である。魚や鳥は云うまでもなく草木にも生命はある。しかるにあらゆる人間はこの世に産まれ出たその時から、これらの生命を奪っている。

中略(ここには世界に存在知るもの全てに生命があり、人は生を受けると生命を殺して生きていく。大人になると戦いをして人を殺す、人間同士殺しあうのである…といった内容が書かれている)

ところで生命とはどんなものだろう?

成就に向かって流転するもの、これすなわち生命である。

そうして生命は「個」を足場とする。一人の人、一匹の獣、一尾の魚、一本の木、一茎の草、一個の虫…これらのものを足場とする。非情の如く思われる山や川や石や土や日月星辰風雨霜雪といえども、実は皆生命を持っている。すなわち宇宙の森羅万象は一切生命を持っている。さらにこれを換言すれば宇宙は「生命の本態」であり、森羅万象はその表現である。「個」の生命は「生命の本態」に通じ、「生命の本態」は「個」の生命に通ずる。だから二にして一でありまた一にして二であると云える。したがって一人の人間が、罪を犯すということは、「個」の生命を穢すばかりでなく、「生命の本態」を穢すことになる。すなわち二重の罪なのである』

*当初は城主と教祖との善悪の対立という構造で描かれながらも、物語が進むうちに善悪の区別がつかなくなってくる。さらに、作者の「ある思い」が混沌としてきて、ついにこの物語は中断してしまうのである。

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