大内青巒著「六祖法宝壇経講義」を読む(第一 行由-05 慧能が偈を作る)

[壇経講義本文]

壇経1-21

六祖労に臼杵の間に服することここに八か月、ある日一童子の来たりて偈を誦するあり、童子にただして神秀上座の作る所なるを聞き、童子(本文上人とあるは童子を指す)をして偈を題せる南廊に導かしむ、時に別駕(刺史の副官の如きもの)張日用なるもの側にあり、六祖請うて之を読ましめ、聞きおわりて曰く「吾もまた一偈あり、別駕代わりて書せよ」別駕驚き軽蔑の語調をもって「汝もまた偈を作るか、これは珍事なり」と、六祖曰く「無上菩提を求めんと欲せば、初学を軽んずることなかれ、智は必ずしも人の上下にこだわらず、下位の人に上智なるあり、上位の人に無智なるあり、その智を問わずして人を軽んぜば、我見止む時なく、無量の罪過あらん」といえり、この無上菩提●●●●ばんとせば初学●●んずべからず(漢文→書き下し文)との語、果たして六祖の口より出でしや否やを知らずといえども、よし何人のいいし所なるも、金言というべし、それ学はもって練修の久しきを貴ばん、しかれども宗教においては修学の長短浅深を問わんや、要は唯信不信をもって判ずべきのみ、識はもって一世をおおい、学はもって百代の宗と仰がるる人にして、往々生死岸頭に立ちて彷徨狼狽するもの少なからず、一文不知の村翁野媼といえども、そが不抜の確信は水火をさけず、死に臨みて平然帰するが如きあり、宗教においては、学識や爵位や世間高上の地位に置くもの、すべて貴きにあらず、要は唯信仰のみ、信仰を有せる者は初学もなお大善知識なり、張別駕は六祖が俊利なる舌鋒に当たるべからず、すなわち語を転じて曰く「余計なこと言わずにまず偈を述べよ、われ之を書せん」と、しかれども心ひそかに感ずる所やありけん「汝もし法を得ば第一に吾を済度すべし、このことを忘るるなかれ」といいしは甚だゆかし、
この段五灯会元に対照するに左の如し、

五灯会元1-22
壇経1-23

正宗記等には塵埃を塵埃に作るという非なり、また伝灯録には樹を樹に作り、鏡を鏡に作り、何処惹●●を何仮払○○に作る、共に穏やかならず、五灯会元は今文の如く正せり、
菩提といい、明鏡といい、樹といい、(うてな)といい、身といい、心という、これ皆妄想分別の仮名虚相のみ、神秀いまだこの妄分別の境界を超出すること能わずして、身はこれ菩提樹、心は明鏡台の如しという、すでに身と心との二つを見て、これを菩提樹に比し、明鏡台に喩う、菩提の相対には煩悩あり、明の相対には暗あるべし、すでに明暗を認め煩悩菩提が気にかかる、如何ぞその煩悩の暗を離れて、菩提の明に向かうことを(こいねが)わざるべけんや、ソコで時々に勤めて払拭して塵埃を惹かしめざるように修行せざるべからずという、これ彼の神秀の心得かたにして、初心のものの最もまさに務むべきの急たる所なれども、この幼稚なる工夫をもって、直指単伝の正法眼蔵に擬するは、驢鞍橋をもって阿爺の下頷となすよりも甚だしき間違いというべきなり、故に慧能は敢えて神秀の偈を駁せるにも非ず、もとより駁すべき価値あるにも非ず、雲泥の違いある地位に立ちて、ただありのままに一切諸法の真面目を赤裸々露堂々に吐露して、菩提本無樹明鏡亦非台●●●●●●●●●●という、あにただ菩提明鏡等の閑家具なきのみならんや、煩悩生死六道四生の認むべきも無く、三身四智十力四無畏十八不共法三十二相八十隋好なんどいえる、婆々だまし子供おどかしの要すべきもなし、正眼に見来れば、天際日上り月下り檻前山深く水寒し、この間に何の煩悩菩提をかえらび、何の生死涅槃をか論ぜん、ココの様子を弥勒大士は、山は是れ山水は是れ水といい、慧能は本来無一物●●●●●という、本来とは時間的に一切諸法の無始無終なる姿、無一物とは空間的に一切諸法各自活発無礙なる有様、ユメユメ無一物の三字をもって世のいわゆる空々寂々の姿を誤解することなかれ、すでに是れ一切諸法自由無礙にして、個々独立独尊、もとより他の造作を受けず、他の安排を(か)らず、何の浄穢とか説き、何の迷悟とか論ぜん、故に言う何処惹塵埃●●●●●、あにただ塵埃のみならんや、何の処にか清浄を惹かんとも見よ、何の処にか正覚を惹かんとも見よ、
この偈を書し(おわ)りて徒衆総て驚き嗟訝せざる無しとある、それはもちろんのことなるべけれども、何ぞ多時すなわち八ヶ月の間、この肉身の菩薩をして、米搗きなどをさせたことであったぞ、もったいなきことをしてけりと、徒衆は言いたりとするも、六祖の口より今(みずか)ら之を言われたりや否やは疑わし、疑わしけれども実は然ありしなるべし、ソコで五祖はその噂の高きを聞きて、他人の嫉妬に慧能が害を受けんことを恐れて、その本来無一物の偈を、(わらじ)にて塗抹し、いまだ見性せずと言われたとある、慧能元来見性を要せず、五祖の将鞵擦了●●●●は、還って慧能のために万歳を唱うるが如く相似たり、ソレとも知らずに衆以為然●●●●その意気地なさ加減、皮下に血あるもの他に一人も無かりしを見るに足る、伝灯に曰く「祖後此の偈を見、此は是れ誰が作ぞ、亦未だ見性せず、衆は師の語るを聞き、遂に之顧みず」(漢文→書き下し文)と、


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