大内青巒著「六祖法宝壇経講義」を読む(第一 行由-04 神秀が偈を作る)
[壇経講義本文]
天桂曰く「神秀思惟というより以下の数百言、特にこれ詭弁無実の語、当に撤脱に抹殺し去るべし、大師何をもってか秀師胸中に隠私する所の事を測度して、特に大梵講堂人天の衆前に訐揚せんや、しかもまた秀師初め忍大師の会に在り、誓心苦節、樵汲を以って自伇して、その道を求む、忍師これを黙識して、深く器重を加え、これに言いて曰く、吾人を度する多しかな、悟解に至りては汝に及ぶ者無しと、これをもって知るべし、門人偏に彼我の見をもって、妄に輸○(判読不能)を説く者なるを、蓋し書を覧る者は、自ら好手眼ありて能く決択すべし、故に言う、ことごとく書を信ぜば、書なきに如かずと云々、伝灯録に曰く、
この節の無実誣妄の言たるは、実に天桂の論ずる所の如し、神秀は北宗の開祖たり、伝灯すでに学内外に通し衆に崇仰せらると称す、この人にして何ぞこの愚をなさん、仮に神秀にしてこの事ありとするも、当時碓坊に労するの六祖、何ぞ上座神秀の私事を知らん、仮に六祖これを知ることありとするも、あに大梵講堂の公席に他人の私事を訐発するの理あらんや、もし六祖にしてこの事ありとせば、六祖また歯牙にかくるに足らざる庸僧と言わざるべからず、想うに南宗の末徒、北宗の徒と争い、その敵祖をおとしめんがために、この○(判読不能。讒?)構誣妄の言を弄したるものなるべし、この一節中神秀の偈を解すれば足れり、他はことごとく抹殺して可なり、神秀の偈、雛僧も尚一顧の価なきが如く蔑如す、然れども六祖の偈に比すればこそ、一段劣るが如く見ゆるも、決して軽視すべきものにあらず、身是菩提樹、五尺の自身即ち菩提道場なり、菩提とて肉身の外に存するにあらず、心如明鏡台、吾人相互自心の本性は本然清浄にして、明鏡の如し、明鏡や花来たれば花映し、月来たれば月映じ、万象これに対すればことごとくその影生ず、然れども明鏡もし磨くことなく放棄し置かば、塵埃にくもるべし、心性本然清浄なるも、懈怠することあらば、煩悩の塵埃、心鏡を垢汚し、以って生死に流転せん、故にいう時々に勤めて払拭し塵埃惹か使むる勿れと、
この一節またこれ神秀を○(判読不能。讒?)誣するの妄言濫説のみ、すでに人総知らずという、六祖焉んぞこれを知らん、六祖また豈に他人胸中の煩悶を暴露するの陋をなさんや、宜しく剗滅し去るべし、
神秀の偈を書きたる廊下の壁は、五祖、慮珍という者をして、楞伽の変相を書かしめんとせられしに、ここに偈を題したるものあり、五祖これを見て、神秀の所為なるを暁り、讃嘆して曰く、後代この偈に依って修行し、固く心鏡を守りて、菩提に趣向し、常に払拭修練せば、悪道に堕することなく、大利益を得ん、凡所有相皆是虚妄(色を形に題したる者は皆虚妄)ただこの偈をここへ置けば、もはや書をかくには及ばぬと、門人をして香を焼き礼拝誦念せしめたり、
神秀、五祖の親嫡たらずといえども、今は同門七百の上座たり、後には北宗の開祖たり、何ぞ弟子有少智慧否云々の痴言を吐露せんや、これまた後人の誣言たるは疑うべからず、
五祖、神秀に語りて曰く、この偈もし果たして汝の作りしものならば、汝は未だ自己の本性を徹見するに至らず、ただ門外にありて未だ門内に入らざるものなり、かくの如き考えにては、無上菩提を求むとも遂に得べからず、無上菩提は言下に自己の本心本性を見得するを得べしと、言下とは、肝要の語にして、言というも言語に限ると思うべからず、一機一境すべての上に、分別を用いず工夫をからざることをいうなり、その言下に自己の本性を見る有様を次に述べて曰く、一切時中(いつでも)時を選ばず処を問わず、念々目に見、耳に聞く所、すべて法に任せば、わずかも礙滞することなし、目に色を見、耳に声を聞きて滞るは、我より見取りをつけて、執着するが故なり、例えば花を看て喜び、紅葉を観て悲しむ如き、皆我心により見取りをつけて、或いは喜び或いは悲しむなり、花や人を喜ばしむるために咲けるにあらず、紅葉や人を悲しましむるために紅なるにあらず、花はこれ花、紅葉はこれ紅葉、何をか喜び、何をか悲しまん、もしそれ客観の万境に一任して住着する所なくんば、声色堆裏曾て滞る所なく、万法一真、万境一如のみ、如とは如似なり、不変を義とす、所謂魚行く魚に似たり、鳥飛ぶ鳥の如し(本文は漢文だが、書き下し文にした)にして、魚はこれ魚、鳥はこれ鳥、花はこれ花、月はこれ月(平等に即する差別)しかも魚や鳥や花や月や、森羅万象、一として如ならざることなし、(差別に即する平等)既に客観の境も如なり、主観の心も如なり、一切諸法平等一如にして二如あることなきが故に、如如の心という、既に物心万法皆一如なれば、縁に触れ境に対して住着すべからず、単に万境に対して住着すべからざるのみならず、呼んで如となす所にもまた住着すべからず、この如如の心は即ち真実なり、無上菩提とて敢えて遠きに求むべからず、如如の心即ち無上菩提の自性なり、もしこの意を了得せば行動言行すべて任運にして、盡(尽)地盡界往くとして通せざるなく、憎しみなく愛なく、順逆に惑わず、坐起おのずから安かることを得べし、
五祖続いて神秀に告げて曰く、汝去りて一両日間考えて更に一偈を作り持ち来たれ、もしその偈にしてわが心にかなうことを得れば、汝に衣法を付属して第六祖とせんと、又経数日の下二十四字は後の不当者が瞽説讕辞たる(判読しにくいが、「おろかな説、ウソの言葉」という意味か)は明らかなり、一筆に匃下し去りて可なり、