【おもしろいの正体:2】そこにいるだけでおもしろいってどういうこと?
あるがままのチカラ。技術ではないもの。
極端な例かもしれませんが、何もしなくても、
そこにいるだけで面白い、ってありますよね。
にらめっこした時に、一生懸命変顔するより、
急に真面目な顔した方が面白かったりします。
おもしろい顔をしてどうだおもしろいだろう、
と見せてるのは実はあんまり面白くない。
こういうことは日常にいっぱいあって、
昨日の親戚のスピーチの話もそうですが、
おじさんの話が胸を打つのは、
逆に何もしてないから、というのもあります。
ちょっとはにかんだ顔をしてちんまりと
そこに立っただけで既に勝っているというか、
そこにいることが既に強いんですね。
そこにあるだけの強さ。
お笑いでも、何もしなくても
顔を見ただけで笑っちゃう人っていますよね。
最近のM1とか、もう技術の見本市に
なってる感がありますが、
それでも錦鯉のまさのりさんとか、
モグライダーのともしげさんとか、
顔ヂカラで笑っちゃう人も多いです。
いるだけで既に何かを出している。
だから逆に理屈っぽいことをすると
逆につまんなくなる。
前回のM1で、ともしげさんが、
上手に出来すぎて笑いが取れなかった
なんて言われてます。すごいよね。
ことばのないもの。
絵画もある意味、そこにあることで
何かを発しているものです。
これはどういう意味か、
みたいなことはどこにも書いてない。
私はここにいる。感じてくれ、
みたいなことを発している。
これって言語化できないものです。
てか言語化できないところに価値がある。
クリエイターが普段仕事で、
何とかして伝えよう、としてることと、
結果は同じでもルートが違う。
ストーリーのないもの
仕事のクリエイティブが導く感情は、
人によってバラバラじゃ良くない訳で、
見る人が好きに読み取ればいい
芸術作品とは違うのかもしれません。
ですが、導かれてそう思うより、
自分で感じた方が絶対強い。
ストーリーがあると確かに誘導しやすいです。
あれがこうなってこうなる。
みたいなのは確実に一つの答えに辿り着く。
一方で世の中には、
ストーリーはないのに感情を動かされるものが
いっぱいあります。
「五月雨や
大河の前に
家二軒」
与謝蕪村の俳句ですが、
俳句って意味わからんって思うけど、
これは絵だ。と思うとすごくわかる。
瞬間を切り取ってるので、その時の、
それを見ている自分に誘導されます。
ここにはその時の感情がある。
感動するものは、決して感動しろとは言わない。
ただそこにあるもの
感動するのはあくまでもこちら側です。
こっちが能動的に気持ちを動かしている。
「咳をしても一人」
尾崎放哉の自由律俳句(五七五じゃない)。
言語化の逆で、
言葉による映像化を行なっていると
考えるとわかりやすい。
さびしいと、いう言葉では心は動かないけど、
この言葉から自分で映像を結ぶと、
感情が伝わってくる。すごく高級です。
「大根引き
大根で道を
教えけり」
小林一茶の句。
こんなの何にも言ってない。
ただそういう風景を見た。ということです。
だけどそこにある情報量がすごい。
どういう場所なのか、どういう人なのか、
どういう季節でどういう気持ちで、
とかすごく伝わってくる。
これって説明文みたいにすると
すごく長くなってしまう。
切り取って、
余計なものを排してるから逆に見えてくる。
これって短い秒数のCMの感覚とすごく近いです。
なんでおもしろいのかを説明されておもしろいと思うことは、まず、ない。
今書いていることと真逆の結論ですが、
こういうことだと思います。
左脳(理屈)でおもしろさを作ることはできても
おもしろいと感じるのは右脳(感情)です。
理屈じゃない「天然」にはかなわない。
だけど「天然」は才能なので、
努力じゃ解決することはできません。
ただし「天然」はその呪縛から
逃れることはできない。これも大変です。
凡人としては、何とか自力で
おもしろいを探していきたいものです。
次回は
【おもしろいの正体:3】落語は文字で読んでもそんなにおもしろくない。
じゃあ何で見るとおもしろいのか、
っていうお話です。
よろしくです。