辞書を開かなくても本は読めるけど、辞書を開かないと文章は書けない。
初めて辞典や辞書に触れたのはいつだったのか覚えていますか?
僕があの分厚く途方もない文字が並んだ書物を意識したのは、英和辞典でした。それは僕に買い与えられたものでなく、母が所有する英和辞典で、箱もなく表紙部分もボロボロだったのを覚えています。
幼少の頃の僕は疑問に持つと、とりあえず両親に尋ねる子供で、父も母も快く答えてくれていました。
その一環で尋ねた英単語を母が答えてくれる時に、その英和辞典は登場し、当時の僕に疑問よりも強い印象を残したのでした。
母いわく、その辞典は短大の頃から使っているものとのこと。勉強熱心な学生だったのでしょう。
使っていた英和辞典を見て、母の学生時代に思いを馳せてしまうなんて不思議なものです。
そんな英和辞典も今はスマートフォンやパソコンに代わって、あの分厚く重い書物に頼る人も少なくなったのではないでしょうか。
僕自身、簡単な調べものはすぐにスマホに頼ってしまいます。それ自体は悪いことだと思ってはいません。
便利なものは使っていくべきです。実家に帰ると母がタブレットでおせちのレシピを調べていて、正月には父と美味しい夕食を共にしました。
スマートフォンやパソコンの普及によって、調べ物以外にも発信することも気軽になりました。
世間的に一億総情報発信者時代、一億総メディア時代なんて呼ばれています。
そんな誰もが発信している今、辞典を開くことの意味についてたまに考えます。
小説を読んでいると知らない漢字や言葉の使い方に必ず一つや二つぶつかるものです。
以前の僕は気にせずに読み進めていました。
漢字や言葉の意味が分からなくとも、物語には何の問題ないと僕は思っていたからです。アメリカに行ったことなくても、ポール・オースターの小説は面白いんですから。
ただ、小説を書く訓練で模写をした時に実感したのですが、そうして見逃した漢字や言葉が如何に多いことか。
知らない漢字や言葉があっても小説の最後のページの最後の文字まで読めば物語は終わります。小説を読む、とはそれくらい好い加減なものなんですよね。
けれど、小説を書くとなると、自分の知らない漢字や言葉を使うことは難しい。というか、ほとんど不可能に近いんです。
小説を書き始めると、小説の読み方も変わるものなんだなと強く実感したのは、模写するようになった二十代前半でした。その頃に本屋へ行って、手に取ったのが小内一編「てにをは辞典」でした。
帯には「ひとつ上をめざす 文章上達のための辞典」とあって、心強くまた心躍ったのを覚えています。
そんな「てにをは辞典」に関する記事を最近、文芸ウェブマガジン・蓼食う本の虫さんで書かせていただきました。
という、まさかの宣伝なんですけど、僕の中でも特別な辞典についての記事を書く機会をいただけるとは思っていなかったので、とても良い経験になりました。
また、記事を書く為に改めて「てにをは辞典」について考えてみたんですが、本当に色んな使い方ができる文章を書きたい人の強い味方になってくれる辞典だなと実感した次第です。
良ければ一読いただければと思います。
あと、蓼食う本の虫さんというサイトも面白い記事が多くてオススメです。個人的に、
というBL小説のオススメ記事と
VTuberが活躍する小説のオススメ記事が参考になりました。VTuberという視点は僕にはなかったけど、増えて来ているんだなぁと実感したりしました。