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完結編【毎年5月31日、私は決まっておすしを食べている。】

20歳まで生きれないと言われた兄にまつわる数々のストーリ。これは幼少期から順に連載した小説を全編+あとがきまでまとめたものです。

Vol.1 おすし

兄の好物だった、おすし 。毎年5月31日、わたしは決まっておすしを食べている。

           *


発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。母は一息ついてソファに横になった。わたしはパイプ椅子に腰掛け、ぼんやりと兄を眺めている。いくら危篤と言われてもまるで実感がない。悲しくてその現実を受け入れられないのではない。きっとこの一時も笑い話のひとつになる日が来ると信じて疑わなかった。なまぬるい病院の個室に注ぐ柔らかな初夏の日差しが、平和な日常を思い出させてくれる。外はこんなに爽やかなのに...。

ベッドに仰向けで寝ているはずの兄は、目を瞑ったまま徐に天井に手を伸ばし、空気を摘もうとしている。そうかと思うと、その手を口に運んでもぐもぐと口を動かした。ひとつ、またひとつ。

「お母さん、見て!何か食べているみたい...。ほら、また!」

「ほんとだわ。お寿司...? お兄ちゃん大好きだからね。」

彼は幻のお寿司を満足そうに味わっている。好物の帆立に、次はいくらの軍艦巻きだろうか。幸せな幻覚。母とわたしは顔を見合わせてくすくすと笑った。

泊まり込みの看病が始まってから一週間、疲れと緊張が高まっていた私たちを、兄はいつもと変わらず笑顔にしてくれた。

            
彼は3歳の時に病に侵された。1年後に茨城でわたしが生まれた時には、祖母が付き添って東京の病院で暮らし始めていた。それから24年間、何度入退院を繰り返してきたのだろう。人懐こい笑顔とお茶目なキャラクターで院内の人気者でもあった彼は、入院というより「病院で暮らす」という言葉の方が合っている。新入りの患者が困っていれば代わりにナースコールを押し、仕事に慣れない新米ナースを励ますのも彼の役目だ。

「お兄は何の病気なの?」何度も繰り返してきた問い。幼い頃は、原因不明の病としか聞かされていなかった。これまで3つの病院を渡り歩き、数えきれない医師達が関わってきた。これだけ医療が進んだ今でさえ、誰も彼を助けられないことを悔しくも受け入れるしかなかった。

しかし、大人になって改めて母に聞いた事実は少し違うものだった。
「赤ちゃんの時は健康そのものだったの。ある時、麻疹が流行ってね、お兄ちゃんも近くの小児科で受診したの。その時の処置がまずかったのかな...。強い薬で発疹を止めてしまって。それから口内炎で口の中も食道もひどく荒れちゃって。その後も外に出れなかったウイルスがずっと身体の中で悪さを続けているみたい。癌と言われたこともあったけれど、結局本当の病名は分からない。」

“それって医療ミスじゃないか!”と見たこともない医者へ怒りを募らせることもあったが、20年も前の出来事であっては暖簾に腕押し。「近くの小児科」と言うだけで、実際にその名前を聞くこともなかった。家の近くには人気の小児科はあったけれど、そこのことだったのか、母の実家近くの小児科だったのか、特定するのは少し怖いようにも感じられた。両親がその小児科を訴えることはなかった。裁判云々にパワーを割くよりも、兄を救うことに必死だったのだろう。無論、討論さえ嫌いな平和主義の父が、医者を訴えることなどしなかったのかもしれない。

それから母の人生は兄一色に変わった。わたしの家族は兄中心にまわっている。


3歳で発病後、毎年彼の身体には解明できない症状が次々に現れた。それでも5歳くらいまでは、ハラハラする母を尻目に一緒に走ってはしゃいでいた記憶がある。それから思うように歩けなくなり、車椅子になり、しまいには股関節が変形してしまった。ひとつ、またひとつと身体中本来の機能に代わる人工物が彼の一部となっていく。胸には毎日点滴を刺すポートが埋め込まれていて、ほんの一部だけターミネーターみたいだ。おへそから出た太い管は緑色の胃液を外のパックに排出している。いつかの手術で喉に穴をあけ、ゼコゼコ音が聞こえれば痰を吸引する。

次々に現れる症状に立ち向かう本人と病院の先生達。それは終わりの無いいたちごっこにも思えた。頭、目、耳が唯一手を施していないパーツかもしれない。そんな連続は完成系とは言えないが、彼の肉体は数えきれない医療技術の賜物だ。

そして、彼の心はいつでも生きることに前向きだった。痛みに耐えて顔をしかめる姿は幾度となく見てきた。けれど、彼のトレードマークは口を大きく開けたくしゃくしゃの笑顔だ。「つらい」という言葉も彼の口から聞いたことは一度もない。


体調が良く家で生活している時は、彼の全てのパーツを毎日母がメンテナンスしていた。分解し、綺麗にして、付け替える。時には血が滲み出ても、母にしてみればお手の物。ベテラン看護師顔負けの冷静さだ。わたしも小学生になると、新米ナース並に点滴の交換や痰の吸引など、少しずつ手伝えることが増えてきた。

そんな環境で育ったせいで、血を出してわんわん泣いている子どもを見ても、多少通院が必要な友人がいても「大丈夫?」と心配しつつ、心のどこかで “死にはしない” と冷めた自分がいる。

兄にとって一番の脅威は、痰が固まって喉の呼吸口を塞いでしまうこと。少しでも乾燥すれば、加湿器を喉に当て痰を吸引する。痰が固まってくると喉からはピューピュー音が聞こえる。スポッと大きな塊が取れると、彼は満足そうに親指を立ててサインを出した。どんなに気をつけていても、酸素が届かず青ざめた経験は幾度となく襲ってきた。母が長時間外出する時は、わたしや姉が代わりに吸引係を引き受ける。塊が取れた時は「こんなに大きかったよ!」とわたしでも出来ると言わんばかりに自慢するのだけれど、どうしてもの時は仕方なく母にSOSを出すのだった。

「(深呼吸して一気に吐き出す)フンっ!!...ダメだ。詰まってる...。」

加湿器と吸引器のダブル攻撃で塊と奮闘する。兄と集中して呼吸を合わせ、何度も勢い良く息を吐く。ついさっきまで一緒にテレビを見て笑っていたのに、彼はいつも生と死が隣り合わせだ。

「お母さん、あとどのくらいで帰ってこれる?お兄が詰まった。どうしても取れないの。」
わたしがやっても母がやっても変わりないはずなのに、兄もわたしも母が帰ってきただけで全てが解決したような気になった。


「ただいまー!なーに弱気になってるの?! 大丈夫だから、ほら、ゆっくり息を吸って、吐いて。もう一回。」

たとえ外出中でも病院内でも、少しでも呼吸口が詰まったとなれば一大事。医療技術の傑作が鼻くそみたいな塊で命を落としてしまってはいたたまれない。

栄養は口から摂取できず、人生のほとんどを点滴のみで生き続けている。点滴をしていない時間以外、彼は常に点滴の管と繋がっていた。歩ける時でも、管によって守備範囲が限られていることで「あれ取ってみて、これ取ってみて」と用事を頼まれた。彼なりに気を遣って「取って」と言い切れなかったようだが、「取って"みて"」という言い方がわたしをイライラさせることも度々あった。

点滴は幼いわたしには、人間が一生液体だけで生きる実験の様にも見えた。もちろん、彼はもう20年以上もそれを証明し続けている。小学校低学年頃までは、赤ん坊のミルクを作るように、毎日決められた時間に栄養の粉と人肌程に温めたお湯を混ぜ、専用の点滴パックに流し込んでいた。作った液体は白濁色で、茹でたじゃがいもみたいな香りがしてまずくはなさそうだった。小学校中学年頃になると、製薬会社が変わったのか、点滴はだいぶスタイリッシュになった。無色透明、無味かどうかはわからないが無臭の液体。点滴パックの封を開け、注射器で少しだけ液体を取り出す。ガラスの小瓶に入った白い薬をその液体で溶かし、注射器で全てパックに戻し、彼の食事が完成する。

必要な栄養は点滴で補えたが、彼の「食欲」は舌でしか満たせなかった。
「ねぇお兄、そのまま間違ったフリして飲み込んで見たら?」
「そしたら喉の穴から出てくるかも笑」
どんなに茶化してみても唾さえ飲み込まず、一口ひとくち味わって楽しんでは、専用のポットへ器用に吐き出す。こんな方法で一緒に食事を楽しむことができた。家族の誰よりも食いしん坊な彼は、祖母の好物である海老天を中身だけ食べてしまうことも度々あった。


Vol.2 デュアルライフ

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わたしが生まれた後も、兄はしばらく東京の病院と茨城の自宅で入退院を繰り返していた。当時はそんな言葉もなかったが、今思えばデュアルライフの先駆けだ。誕生日、クリスマス、お正月、七五三など、家族写真はどれも幸せに溢れた様子に変わりないのだけれど、兄が写っていたりいなかったりする。

兄が病院にいる間は、母と石塚に住む母方の祖母が交代で付き添った。3歳になったわたしは、ひとつ上の姉と二人で父方のダンプじいちゃん家に預けられるか、家族ぐるみで仲の良い友人宅にお世話になることもあった。石塚のおばあちゃんかダンプばあちゃんが、母の抜けた我が家に泊まりに来てくれることもあった。

父方の祖父母は、農家で大きなダンプを持っていた。四人いる従兄弟がみんなダンプじいちゃん、ダンプばあちゃんと呼ぶので、わたしも姉もそう呼んでいた。ダンプじいちゃんは、父の頭をツルツルにした感じで「はー、よう来たねー。」と父と同じくいつも笑顔でマイペースな人。ダンプばあちゃんは今でこそ歳をとって丸くなったけれど、元教師で当時は少し気難しい人だった。いつも温厚な石塚のおばあちゃんは母と一緒にいる時くらいの安心感があったけれど、どんなに優しくされてもダンプばあちゃんと一緒にいるのは少し落ち着かなかった。ダンプばあちゃんと母との確執がそう感じさせていたのかもしれない。「今度はともちゃん家に泊まりたい!」近所でわたしが一番仲の良かった友人宅への宿泊は、大人の事情で叶わなかった。

いつでも第二、第三の母とも言える大人達に囲まれていたのは幸せなことだ。それでも、まだ幼かったわたしは、姉と大きな夕日に母の顔を浮かべた日もあった。ダンプばあちゃんが誤ってわたしの足に漬物石を落とすというまさかのハプニングも起こった。熱があるのに姉とはしゃぎすぎて第二の母から本気で怒られたあの日のことも、今では良い想い出。どこでも寝れる、どこでも生きていけるわたしの特性は、この時期に形成されたのだと思う。

父は当時30代でバリバリの仕事人間。わたし達もまだ未就学児で、平日はなかなか面倒を見る余裕はなかっただろう。ただ、わたしは覚えていないけれど、父が一度わたしの散髪をしてひどいことになったのだと、姉が昔を思い出して笑ったことがある。きっと慣れないなりに、父も精一杯わたし達の面倒をみてくれていたのだと思う。確かに、わたしの髪を結んでくれた父の姿はおぼろげに覚えているし、沢山の愛は感じていた。幼馴染みたちに言わせれば、父は昔からわたしにデレデレなのだ。わたしもそんなデレデレの愛情はまんざらでもなかった。父は深刻な話ができるとは思えない程いつもふざけていて、わたし達家族を笑わそうとする。

週末の楽しみは、父が運転する車で兄と母のいる病院に行くことだった。父は車が大好きで、愛車の塗装や修理まで自分でこなすし、長時間のドライブも気にしない。毎年夏と冬に仲の良い三家族で旅行する時も、父はどこまででも運転手を買って出る。

週末東京に向かう道中、父は決まって「寝てて良いよ。」と言うのだけれど、疲れた父がいつか居眠り運転をしないかと、子どもながらに心配していた。

「お父は眠くない?」

首都高のオレンジライトに照らされた父の横顔を、後部座席からじっと監視した。少しでも疲れセンサーが察知すると、運転席の後ろから手を回して肩を揉んであげることもあった。父にしてみれば、大人しく寝ていてくれた方が楽だったかもしれない。今も夜の首都高を通る度、あの空気が蘇る。

時には、父と姉とわたしの3人で東京のホテルに泊まることもあった。ユニットバスの使い方を知らずにカーペットをびしょびしょにした事も、ふかふかのベッドで姉と飛び跳ねた記憶も鮮明に覚えている。ただ、近くにジェットコースターが見えたあのホテルがどこだったのかは思い出せない。

週末病院で母と再会すると、後部座席をフラットにした車内でひとときの家族団欒を楽しんだ。「お利口さんにしてた?」父がヘンチクリンに結んだわたしの髪を母が結い直している間、茨城で起こった他愛も無いことを報告する。兄は面会NGになっていることも度々あったが、院内の友達も沢山出来ていた。わたしは決まって母の肩揉みをした。当時のわたしが父と母に出来ることといえば、元気に肩を揉むことくらいなのだ。

東京と茨城のデュアルライフは、わたしが幼稚園に入る頃まで続いた。


Vol.3 わたしの分身

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わたしが幼稚園に入って半年が過ぎた頃、自宅近くのこども病院に兄が転院できることになった。我が家の生活が大きく変わるビッグイベントだ。入院中も家から20~30分程でいつでも兄に会うことができる。ただ、規則は厳重で、親でさえ面会時間が限られているし、両親以外は兄弟でさえ病室に入ることは許されない。

病室は二階の階段を上がり、横に伸びた廊下越しの正面に入り口がある。こども病院らしく、入り口のガラス戸にはいつも丸々としたゾウや太陽みたいなライオンの絵が描かれていた。右と左にひとつずつユニットがあり、兄がいるのはほとんど右側だった。面会時は、入り口の隣にある更衣室で手を洗い、専用のガウンに着替え、靴もスリッパに履き替える。ガウン姿になった母がドア1枚を挟んだ入り口に現れ、外から覗くわたし達に軽く手を振り、また1枚ドアを開けてユニットの中へと入っていく。ドアを2枚挟んだ奥では、点滴台を押しながら歩く子や母親に車椅子を押してもらっている子、感じの良い看護師さん達が足早に歩くユニット内の様子が見えた。

母は毎日、父もできる限り面会時間内に兄との時間を過ごした。時折彼を連れてドア越しに出て来ることもあった。わたしと姉はドアの外から彼をひと目見て、廊下のベンチで何時間も暇を持て余していた。塗り絵にも絵本にも飽きていた。左右のユニットをつなぐ長い廊下には二本の真っ直ぐな線が引かれていて、それを平均台に見立てて歩いたり、「グリコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」と何度も往復してみたりした。

転院後、更にビッグイベントは続き、兄が骨髄移植をすることになった。ウィキペディアによると、骨髄移植は「白血病や再生不良性貧血などの血液難病の患者に、提供者(ドナー)の正常な骨髄細胞を静脈内に注入して移植する治療」だ。骨を削るわけではなく、腰骨の中にある骨髄を注射器で吸い取って患者に注入する。説明を聞く度に、テールスープに入っているあの固い骨と中のゼラチンを想像してしまう。子ども病院ではちょうど移植手術の成功が認められたところで、兄も試してみてはどうかと白羽の矢が立ったのだ。当時はまだ事例も少なく、上手くいけば長く生きられるが、移植したところで身体が拒否反応を起こす可能性も大いにあった。病院の研究の為ではなく、兄の命の為の移植なのか。信用、信頼。ぐるぐるぐるぐる。「骨髄移植」という希望の光にも複雑な問題が絡み合った。

それをやるかやらないかの判断も難しいが、まず大切なのは白血球の型がピッタリ合うドナーを見つけること。白血球の型は数百から数万通りもあると言われているらしい。日本には当時まだ骨髄バンクがなく、わたし達家族に加え、有難いことに親戚や多くの友人達も集まって採血検査に協力してくれた。


数日後、数十人のドナー候補者の中から、わたしの白血球がピッタリ合うという驚きの結果となった。骨髄移植のコの字もよくわからない幼稚園児のわたしが、いきなり「救世主」として矢面に立たされたのだ。先生は、成人であれば脊髄側の手術で足りるけれど、わたしは身体が小さすぎて腰回り一周から針を入れる必要があり、傷の跡も将来は消えてなくなる等、母とわたしに詳しく説明してくれた。難しいことは良くわからないが、兄を助けられる役目を得たことは何だか誇らしかった。母からドナーになるかと聞かれて、断る理由など1ミリもなかった。今思えば、幼かったが故に余計な恐怖を感じなかったのかもしれない。もしかしたら、「大したことない」と無意識に自分自身に思い込ませていたのかもしれない。今も昔も健康優良児のわたしは、人生でこの時が唯一の入院経験となっている。

入院初日、看護師さんに連れられて初めて兄のいる病室に入った。待合室や廊下とは違う初めての匂い。温度も生暖かかった。外から想像するしかなかった病室の中を、遠慮しがちにまじまじと見回した。こども病院の中には、同じくらいの年齢で様々な治療を受けている人たちがいる。薬で髪が抜けている子、頭が大きく膨らんだ子、見た目では何の病気かわからない子達もいた。兄には当たり前でもわたしには新しい世界。彼が生きてきた世界を覗けた気がして嬉しかった。

兄と二人きりで話すのはなんだかとても照れくさい。部屋の外に出た看護師さんと母が話す声が漏れてくる。
「兄弟で会うのは久しぶりですよね?」
「そうですね。下の子と話したのは3ヶ月ぶりですかね。」

ガラス越しに自分達のことを話題にされて、どこを見ていて良いのか分からなかった。「久しぶり!」と言ったあと、恥ずかしさで兄との会話も続かなかった。けれど、彼はわたしが来るのを心待ちにしてくれていて、色画用紙に折り紙を貼った手紙を用意してくれていた。「ありがとう。一緒にがんばろうね!」というメッセージに更に照れくささが増したけれど、入院生活の大先輩からの言葉はとても心強かった。

それから数日間は検査や手術の準備が続き、採血の注射にもだいぶ慣れた。子ども病院だけあって、看護師さんは近所の優しいお姉さんのようだった。いつも人気キャラクターのペンを身につけていて、子ども達の気を惹くのも上手かった。

毎日夕方に母が面会に来ると、広いプレイルームでテニスのテレビゲームをするのが楽しみだった。新入りのわたしは、誰かがゲームを使っていると「貸して」とは言えずに遠くからずっと見ているだけだった。夜は例のごとく面会時間が決められていて、母は後ろ髪を引かれるように帰るのだけれど、「帰らないで」と泣いたのは一回だけだった。兄もそうして泣いたことはあったのだろうか。

病院ではたったひとりだけ友達ができた。プレイルームでわたしより先にテニスゲームをしていた男の子だ。病院の中では引っ込み思案だったわたしに「仲良くしてね。」と母が代わって声をかけたのが始まりで、それから何度かお互いのベッドを行き来した。車椅子でもない、点滴もない彼が何の病気で入院していたのかはわからない。バイバイを言われることもなく、数日後に彼は病棟からいなくなってしまった。院内の友達関係はなんともセンシティブなものだった。退院したのか、転院したのか、はたまた...彼のその後を聞いてはいけない気がした。

手術当日。渡された服に着替え、手術室近くでストレッチャーに横になる。
「行ってきます。」
心配そうに見送る父と母。わたしに向けられたふたりの強い眼差しと緊張感を躱し、いたって冷静を装って事を進めた。わたしの顔は明らかに強張っていた。

しかしいざ手術室の入り口に差し掛かると、怖いというより、なかなか入ることのできない場所に入る好奇心の方が優っていた。手術室の中には何があるのだろう...。隈なく眺めたい期待とは裏腹に、白いライトが眩し過ぎて何も見えない。看護師さんに「どの味がいい?」と聞かれてリクエストしておいたチョコレート風味の麻酔をされ、教えられた通り羊の数を3つくらい数えたところから記憶がない。ちなみに、麻酔はチョコレートの他に、イチゴとバナナの香りが選べた。実際にチョコレートの香りがしたのかさえ分からない。ただ、手術は上手くいった。

麻酔が切れて目が覚めたわたしの第一声は「103」だった。目を開けるとベッドの横には安堵した母の笑顔があった。
「よく頑張ったねー。いきなり数を言うもんだから、まだ羊を数えているのかと思ったよ。」

今でも鮮明に覚えている目覚める直前の映像。一匹ずつ漫画チックな羊が現れては、軽いおもちゃみたいに遠くへポーンと飛んでいく。そしてまた次の羊が現れてはそれを繰り返す。わたしの頭の中は素直に羊を数え続けていた。

幸運にも、その後兄への移植も全て成功した。ひとつ問題があったとすれば、術後からしばらくわたしの腰が90度折れ曲がったことくらいだ。元に戻るまでの1ヶ月は歩くのに苦労したけれど、その格好で元気に走り回るわたしを見て看護師さんが笑ってくれるのをわたしも面白がった。老人のような格好でも中身は元気いっぱいの幼稚園児。退院まで毎日院内をあちこち歩き回き、ビニール越しにしか会えない兄の無菌室にも度々お邪魔した。兄は横になりながらパックマンやマリオのファミコンで遊んでいて少し羨ましかった。

           *

退院して数週間の自宅療養を終え、久しぶりに幼稚園に登園した初日。楽しみにしていた縄跳び大会が催された。園長先生も担任の先生も心配して見学するように勧めたけれど、わたしは有り余るエネルギーで優勝した。わたしの健康体は以前と何も変わらなかった。

かなり健康な骨髄を移植したことで、兄の調子は安定した。わたしの一部が今や兄の一部になった。家族、兄妹以上、一心同体未満の感覚。それからは不思議なことに、たまにわたしが風邪を引くと兄も決まって熱を出した。わたしが遠くに出かけると、絶好調だったはずの兄が病院に引き戻されてしまうことが度々起こった。わたしと兄は見えない何かで繋がった。


Vol.4 優しさと偏見

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家で過ごす間、兄は養護学校ではなく、一年遅れで市立の幼稚園、隣接する市立小学校、そして市立中学校に通った。この幼稚園で仲良し三家族、わたしにとっては第二第三の母達に出会えたことを思うと、入園を許してくれた当時の園長には感謝しかない。兄は知的障害がなかったことで、いずれも特別学級ではなく普通学級に通っていた。園や学校側に「YES」と言ってもらえるまで母が奮闘したのは言うまでもない。

幼稚園は1年のみの付き合いで、先生達以外は子ども達同士で兄弟のことを知る由もない。一方、小学校は6年間。わたしが入学すると、既に兄は校内のちょっとした有名人。兄弟皆んな同じ学校に通ったことで、姉やわたしが続いて入学すれば、「あー、マー君の妹さんなのね!」と声をかけられることもあった。

「お前の兄ちゃん植物人間なの?」
突然、好奇心旺盛な悠太君が悪気もなく聞いてきた。悠太君は親が離婚してから喧嘩や万引きを繰り返し、校内ではいわゆる問題児に認定されていた。調子が良い時はクラスのムードメーカーでもあるけれど、喧嘩が始まると手のつけられないとっぽいグループの頭だった。わたしはなぜか彼とよくしゃべった。愛嬌のある彼がいつもそんな風に笑って過ごせれば良いのにと思っていた。そんな彼からの直球の問い掛けに、わたしが気を悪くすることはなかった。ジロジロ見るだけの大人達よりずっと良かった。

「違うよ。歩けるし(当時はまだ歩いていた)、話せるし(声帯がないので慣れればかすれた声が聞こえる)、頭も普通だし(勉強もできる)。ただ、原因不明の病気なだけ。」
「ふーん。お前も大変なんだな。」
「まぁね。」

手のかかる兄がいて大変じゃないと言えば嘘になる。ただ、わたしにとっては当たり前過ぎて、それが本当に大変なのかという感覚は麻痺していた。大喧嘩をしたり、妹をいじめたり、違う意味で世話の焼ける兄は世間に五万といるだろう。それに比べればなんてことはない。病気や障がいというフィルターの前に、わたしにとってはただの兄という存在に変わりはなかった。

そうは言っても、障がいだらけの兄を世間に見られることが嫌になる瞬間は度々あった。一歩外に出れば、まじまじともの珍しい生き物を観察するような視線を感じることもあった。エイリアンにでも出くわした様な顔を幾度となく見てきた。

そもそもわたしが兄のことをいわゆる障がい者だと気付いたのは、小学3年生の時だ。薄々感じてはいたものの、それまでわたしにとってはあまりに当然の存在すぎて、兄が世間で特別視される人間だとは気付かなかった。授業で特別養護学校の生徒達と交流した時初めて、兄は紛れも無く障がい者のひとりなのだと思い知らされた。


入学許可の壁は高かったが、入学してしまえば、幸せなことに彼の担任になったどの先生達も親身に受け入れてくれた。まだ独身だった幼稚園の先生は、毎年恒例だった仲良し三家族の旅行にも一緒に参加する程だった。第一、二、三の母達もこぞって先生を「しょうちゃん、しょうちゃん」と呼び、先生のお見合い相手まで気にしていた。園長先生は、身長は小柄だけれど、お腹周りがどっしりした見るからにビッグママ。いつも甲高い声でゆっくりと話しかけ、子ども達への愛情が滲み出ていた。母は今でも園長先生と時々会って食事をしている。

小学低学年の時はベテランの女の先生が兄の担任を引き受けてくれた。貫禄ある風格の中に子ども達を包み込む大らかさを兼ね備えているような先生だった。小学校としても前代未聞の新入生。先生は余程の勇気が必要だったと思う。最初の頃は母が付き添うこともあったけれど、しばらくすると登下校や遠足の時だけで、あとは先生にお任せした。心から尊敬している先生のひとりだ。先生が家庭訪問で笑いながら話していたのを今でも覚えている。

「もーね、あの時程焦ったことはなかったですよ。気がついたらマー君の喉の蓋が消えていてね、どこを探しても見つからないの!どうしよう、どうしよう!具合が悪くならないかしら、お母さんにすぐ連絡した方が良いのかしらって。必死に蓋を探しているのに、マー君を見ると“先生大丈夫だよ”って平然としていたの。何がダメで何が大丈夫かは自分でちゃんとわかっているのよね。そして、ホッとしてマー君を見たら洋服に蓋がペタってついていたの。もー二人で笑っちゃいましたよ。」

この頃使っていた喉のパーツには蓋が付いていて、外出時は痰をとる時以外は付けるようにしていた。感染予防の目的と息が漏れずに声が聞き取り易くなるからだ。家の中では外していることの方が多く、兄が話す時は自分の指で穴を抑えると声が聞こえた。そんなことで、蓋がなくなったからといって兄の体調には何の変化もない。有難いことに、先生はそんなパーツの一つひとつまで気にかけてくれていた。

小学校と言えば、運動会は毎年恒例のメインイベントだった。父親は早起きして校庭にブルーシートを広げて陣取りをし、母は大きなお弁当をこしらえた。いつもの三家族の他に、兄と同じクラスのお寿司屋さんも豪華な寿司桶をもって輪に加わった。そして顔見知りや近所の人たちもそれに加わることもあった。それぞれの家族が一畳分程のシートでこじんまりとお弁当を食べているというのに、わたし達のシートは花見会場さながらの賑わいだった。

兄は入退院に合わせてこの小学校と病院内の学校を行き来して通った。学校に通っている間も、定期的な通院があったり、時には想定外の受診もあった。鍵を開けてもシーンとした家。そんな時はまるで樹海みたいに家の空気が冷たく静まりかえっていた。先に帰っているはずの兄と母がいないと、診察に時間がかかっているだけなのか、また急に入院になったかのどちらだろうかと不安にもなった。逆もしかりで、帰宅するとしばらくぶりに兄が退院していて、何事もなかったかの様に家にいることもあった。

小学校6年生の時には初めて1ヶ月の皆勤賞を取ることが出来た。途方もない達成感。クラスメイト全員が、母と登校した彼を教室で待ち構え「おめでとーう!!」と盛大に祝ってくれた。黒板のイラスト文字に教室内のデコレーション、みんなで寄せ書きまで用意してくれた。

“マー君、おめでとう!頑張ったね!”
“おめでとう!スーパーカッコいい!!”
“おめでとうございます!これからも健康に気をつけて。”
“マー君がいると明るくなります。これからも毎日来てください!”
“新記録更新し続けよう!応援してる!”

彼は先生達だけでなく、クラスメイトにも恵まれていた。


Vol.5 おりがみ

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兄は太い指の見た目によらず手先がとても器用だった。彼の“遊び”と言えば、ガンダムのプラモデルにミニ四駆作り。ガンダムを入れたおもちゃ箱の中には優に300体以上が収容されていて、お気に入りを並べては戦いごっこをして楽しんだ。ミニ四駆にはヤスリや工具を使って改造し、極限まで軽さと車体のバランスを調整していた。軽過ぎてもレース中に吹っ飛んでしまうし、重過ぎても思うようにスピードが出ない。タイヤを変えたり、モーターを変えたりして世界に一台だけのスーパーカーを作っていた。週末になると父とミニ四駆のレース場に行き、自慢の車を走らせるのが楽しみだった。わたしがリカちゃん人形に惹かれるまでは、ガンダムとミニ四駆で一緒に遊ぶことも多かった。

ミニ四駆制作中、度々ハプニングが起こった。ハプニング大賞は、瞬間接着剤。なかなか出てこない瞬間接着剤の先を覗き込んだ瞬間、ピュっと出た液体が彼の目に命中した。「目が開かない!」と騒ぐ兄を横目に、石塚のおばあちゃんが機転を効かせて注射器と水を持って現れた。急いで注射器で目に何度も何度も水を流し、やっとまぶたがパカっと開いて瞬間接着剤事件は一件落着。あの時おばあちゃんがいなかったら、兄はまたひとつ人に説明できない障がいを増やしているところだった。「もう絶対に瞬間接着剤の先を目に向けない。」家族みんなで大笑いした。

もう一つは、急に居なくなったで賞。ある夏の日、兄は窓に背を向けて畳に座り込み、いつもの様に背中を丸めてミニ四駆制作に熱中していた。「またやってるなー」と思いながら、母とわたしは少し離れたテーブルで麦茶を飲みながら夏休みの宿題を終わらせようとしていた。そして次の瞬間兄にもう一度目をやると、彼はそこからそっくり居なくなっていた。機敏に動くことが出来ない彼が瞬間移動ができるハズもない。驚いて母と駆け寄ると、彼は窓から落ちて庭に転がって大笑いしていた。後ろの窓が開いているのに気付かず寄っかかろうとしたらしい。彼を部屋に引き上げてまた大笑い。

兄は予想できないハプニングと笑いを巻き起こす天才だった。


とにかく器用で何かを作ることが好きだった彼は、ガンダムとミニ四駆を卒業すると、家で過ごす時間の多くをおりがみ制作の時間にあてていた。幼い時に病院で付き添ってくれた祖母から教わって以来、彼はおりがみが大の得意なのだ。一枚の紙で100羽が連なった鶴、躍動感溢れる獅子舞や哀愁漂うかぐや姫の旅立ち。みるみる腕を上げ、既に民芸品屋に置けるくらいの技を身につけていた。母と珍しい和紙や作品を貼り付ける色紙を買いに出かけることも増えてきた。


週末は父のワゴン車に沢山の医療機器と彼の食料である点滴を積み、色んな場所に出かけた。夏休みと冬休みにはいつもの三家族で毎年旅行を楽しんだ。遠出した東北旅行では、気仙沼の漁港で豪勢な帆立丼を前に兄は満面の笑み、夜は南三陸で崖ギリギリにそびえ立つ老舗旅館で大きな舟盛りを堪能した。那須ではりんどう湖ふれあい牧場に何度も訪れ、毎回素敵なペンションに宿泊した。

次の旅行先を決める時、母がたまたまテレビでお茶の水にある「おりがみ会館」を見つけた。そこはおりがみの聖地と言える場所だった。ビル全体が見た事もないデザインの和紙やクリエイティブな作品で埋め尽くされている。終始心を躍らせ大量の和紙を購入したのは言うまでもない。テレビでインタビューを受けていた名物館長さんにも挨拶した。館長さんは、持参した彼の作品をしばらくニコニコと眺めてからゆっくり口を開いた。

「君の作品からは魂が感じられる。この判子を名前に変えるともっとプロの作品らしくなるよ。おりがみはこれからも続けていきなさい。」

兄の作品には、右下に愛嬌のある彼の顔を形どった印が押されている。親しみやすいが、プロ目線ではそれが子どもっぽさを演出させるという。館長さんのアドバイスは彼の作品を趣味や特技から引き上げ、兄だけでなくわたし達家族にも希望をもたせてくれた。大満足のおりがみ会館は、彼にとってディズニーランドより興奮する場所だっただろう。

作品は全て兄と母の共同作業。二人で和紙の組み合わせやデザインを話し合い、母が採寸して和紙の準備を整える。同じ和紙でも切り取る場所によって作品の雰囲気も変わってくる。わたしは細かいことが苦手で、この採寸作業が面倒に思えて仕方なかった。

「最近僕の話もろくに聞いてくれないし、和紙も切ってくれないじゃないか!」一度だけ、溜まっていたものを吐き出すように兄が泣いて訴えたことがあった。もちろん母の時間に余裕がない時は作業が進まない。それを理由に二人がギクシャクしていることも度々あった。それでも二人で数々の作品を作りあげてきた。

「個展を開いてみてはどうだろう。」とおりがみ館長さんのアドバイスを受けてから間もなく、兄の個展は現実のものとなった。父の知り合いの協力もあり、地元の展示スペースで数日間に渡って開催されることになった。そうと決まれば人づてに色んなことが動き始めた。自宅や展示会場に新聞やラジオの取材も押し寄せ、地元ではほんの一時スターになったようだった。町の人達も「がんばれ!雅之くん!」と大きな横断幕を作って展示会場にデカデカと張り出してくれた。「僕はもう頑張っているんだけどね。」と苦笑いする兄だったけれど、とにかく沢山の人たちの熱い応援が伝わる展示会だった。そのお陰で、彼も彼の作品も多くの人の目に触れた。その後は彼の作品を求める人も増え、贈答品として注文が入る事も多かった。

彼はおりがみクリエイターとしての肩書きを手に入れたのだ。


肩書きと言えば、兄は社長になったことだってある。わたしが高校生になった時、母は突然お洋服お直しの店をオープンさせた。知り合いから空いているスペースを借り、日曜大工が得意な父とふたりで壁を真っ白に塗り、元が薄暗いバーだったとは思えない空間に変身させた。母はしばらく知り合いの店で洋服直しの修行をし、着々とオープン日に備えた。

「お母さん、お店はじめたから!お兄ちゃんの社長席はここにするからね!」
社会人として初めての社長職。母は、大学に行くことも、就職することも難しい彼に第三の居場所をつくったのだ。兄が姉やわたしには言えない葛藤や不安も、母には全てお見通しだった。文字通り気まぐれな社長出勤が多かったけれど、お店は順調に繁盛し続けた。


Vol.6 不思議な体験

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初めて身内の死を経験したのは、大好きな石塚のおばあちゃんとの別れだった。これまで兄と二人三脚、母とも二人三脚、わたし達家族のぽっかり空きそうな部分をいつも補ってくれたおばあちゃん。いつも優しくて、どこかハイカラで、トヨエツや反町隆のファンだった。近所の人たちに「最近じゃ、おばあちゃんは臭い!汚い!って毛嫌いする孫もいるって言うけれど、うちはみーんな優しい孫で幸せです。」って自慢していたおばあちゃん。おばあちゃんは石塚の家ではいつもおじいちゃんに遠慮していた。


おじいちゃんは書道の先生で、石塚の家には毎週末30人くらいの子どもから大人までが、だだっ広い畳の間に集まっていた。わたしも小学校低学年からおじいちゃんが書道教室を閉めるまでそこで習い続けた。「左で筆は持てん」と右で文字を書くことを教えてくれたのは、おじいちゃんだった。いつも赤筆で生徒達の文字を直したり、お手本を書く姿は威厳があって格好良かった。毎週末、稽古時間の少し前に石塚の家に着くと、おじいちゃんは決まって畳の間で専用の座椅子に座っていた。メガネをずらして読書をしているか、何度も血圧を測ってはノートに記録していた。高血圧で、食事の塩分にもえらく気を遣う人だった。

一方ではいわゆる大酒飲みで、若い頃外で飲んできた日は、おじいちゃんが家に向かってくるのが300m先からでもわかり、家族はみんな身構えたらしい。その名残は今でも残っていて、酔っぱらったおじいちゃんを怒らせてはいけないような雰囲気は何となく感じていた。おじいちゃんが大広間にいると、おばあちゃんと母は居間でゆっくり世間話に花を咲かせた。おじいちゃんが居間にやってくると、おばあちゃんはいつの間にか台所に引っ込んでしまって、一緒に座って話し込むことは少なかった。

居間にもおじいちゃん定位置の座椅子があった。座椅子から手を伸ばしてやっと届く棚には、いつも宝焼酎の2リットルボトルが赤と青で一本ずつ常備されていた。歴代内閣総理大臣の顔が並んだ年季の入った湯呑みを「ここらまでお水を入れてくんちょ。」と言って中曽根康弘あたりを指差す。わたしが水を入れてくると、それに焼酎を入れて昼間から飲みだす。上機嫌になってくると「あたしの乗っていた船は空爆にあってねぇ、仲間はみんな死に物狂いで大海原を泳いだんですよ。でもねぇ、必死に泳ぎ続けた仲間達はほとんど死んだ。あたしは体力を温存して浮かんでたから助かったんだなぁ。」と太平洋戦争の話を始める。母はその海軍話を幼い時から何万回と聞かされて「また始まった」と毛嫌いした。姉やわたしも戦争話に興味をもつまでは大分時間がかかった。けれど、おじいちゃんが亡くなった時、黄色くなった軍隊手帳やら軍歴が押入れから出てきた時は「もっと詳しく聞いておけばよかった」と後悔した。


「最近便秘が酷くてね。お腹も膨れて苦しくて。食欲もないわ。」
「しっかり病院で診てもらってよ。まだまだ元気で長生きしてよね。」
母も心配していたが、自分のことになると後回しのおばあちゃんがやっと検査した時には大腸癌が進行していたらしい。「らしい」というのは、母はおばあちゃんのお葬式までわたし達に病気のことを隠していた。

兄を想ってか、母は生死観については慎重に扱ってきたのだと思う。我が家で一度もペットを飼うことがなかったのは、きっと兄の衛生面を気遣っただけではない。病院でいつか一緒だった友達が亡くなった時も、母は兄に伝えることはなかった。

祖母は高齢で癌の進行がゆっくりだったせいか、わたしたち兄妹は誰も気付かず、最期に入院するまでは我が家にも泊まりに来てくれた。ドライブで夜桜を見たり、温泉にも一緒に行った。

兄の付き添いで薬にも大分知識があった祖母は、正気がなくなるモルヒネは絶対に使いたくないとも言っていたらしい。最後に病院にお見舞いに行った時は、痩せ型のおばあちゃんが更に小さくなっていてショックだった。

それから間もなく、時には母よりも兄の近くにいたおばあちゃんが先に天国に行ってしまった。訃報を聞く少し前、おばあちゃんが空に向かって一歩一歩ルフィーみたいに足を伸ばしていく不思議な夢を見たのは、虫の知らせということだったのだろうか。

家族みんなで石塚の家に行き、兄も姉もわたしも文字どおりわんわん泣いた。みんな石塚のおばあちゃんが大好きだった。流石のおじいちゃんもすっかり意気消沈していた。

「おばあちゃんともっと一緒に居たかった。」
「もっとおばあちゃん孝行したかった。」

おばあちゃんは、兄より先に自分が死ぬと思っていただろうか。祖母である以上、それが世の常ではあるけれど...。兄はおばあちゃんの死をどんな風に受け止めているのだろう。出来る限り「死」から兄を遠ざけてきた母はどんな心持ちなのだろう。涙を拭きながらそんなことがふと頭を過った。


祖母の強力サポートを失い、母の負担はより大きくなった。それでも、わたしが小学校高学年になる頃には兄も体力がついてきたのか、自宅と病院で過ごすサイクルは3ヶ月おきくらいになろうとしていた。母も少しだけ兄から離れた時間も楽しみ始め、わたしや姉と出かける機会も多くなっていた。これまでの母の苦労を考えると、兄を置いてしばし普通の生活を楽しんだとしてもバチは当たるまい。


しかし、神様はまたも試練を与えに降りてきた。

「ふざけないで、ちゃんと着替えて!」
パジャマに着替えられないでいる兄に母が動揺していた。彼はボタンの掛け方が分からないと言うのだ。そんなこと、あるハズが無い。何かがおかしい...。今度は彼に何が起こっているというのか、まるで想像もつかなかった。週末はしばらく家族揃って外出し、彼が元に戻ることをただただ願った。


2週間後、仕方なく彼は病院に戻った。また限られた面会だけ許されて、わたしも姉も鍵っ子の生活に戻った。毎日、学校から自宅に帰るとテーブルには夕飯が置かれていて、母は夜8時過ぎに帰宅した。

母の話によると、兄の記憶喪失はますます進行し、わたしの名前も忘れてしまったようだ。顔を覚えていてくれるかも分からない。感情のコントロールも出来ず、面会に行くと赤ん坊の様に一日中泣いている日もあると言う。またしても出口の見えない摩訶不思議なことが起きてしまった。


それから1年以上が経っただろうか。ある日突然、彼の脳は奇跡的に蘇った。記憶を無くしていた間のことは覚えていないが、記憶が戻る瞬間のことは事細かに教えてくれた。突然頭の中に分厚いデスクトップコンピューターの画面が映し出され、ゆっくりと「し の ぶ」とタイプされたのだと言う。そして次の瞬間、「しのぶちゃん!」と頭の中でスパークし、元の世界に戻ってきたらしい。

しのぶちゃんとは、彼の初恋相手だ。幼稚園で出会ってから、小中学校と事あるごとに兄を気にかけてくれる女の子。いつも礼儀正しく、目を細めて笑う顔から優しさが滲み出ている。とは言っても、幼い頃から警察官の父親に柔道で鍛えられている彼女は、見た目は男勝りで兄よりも骨格のがっしりした女の子だった。彼はしのぶちゃんに会うといつもご機嫌だった。

そんな淡い恋心が、1年以上も続いた謎の記憶喪失から彼を呼び起こさせた。初恋が何よりの治療だったとは驚いたが、元の彼に戻ったことに安堵した。

兄はそれ以外にも度々不思議な体験をしていた。何度も死にかけて、三途の川から帰ってきた経験だってある。意識が遠くなって、底無しの真っ暗な闇に押し沈められた時、誰かに「まだあなたが来る所では無い」と引き揚げられたとも教えてくれた。一見ゾッとする世にも奇妙な物話だけれど、兄から聞くと不思議と温かささえ感じられた。


Vol.7 夢のマイホーム

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いくら小柄なホビット一家でも、小学校高学年になると、ずっと住み続けてきた2DKのアパートも大分手狭になってきた。そこにタイミング良く、近所の人が中古の一軒家を売りに出すと言う話が舞い込んできた。アパートからも歩いて3分。少々古いが日当たりも申し分ない二階建ての4DK。両親が内覧してみると、キッチンの床が抜ける程痛んでいたけれど、手直しすれば今よりは大分住みやすくなりそうだった。

母の従兄弟は石塚で材木屋を営んでいて、彼に頼むと二つ返事でリノベーションを引き受けてくれた。そうと決まるとおじさんは直ぐに大工チームを率いてやってきて、2階の四畳半と六畳間の壁をブチ抜いた。そこが姉とわたしの初めての二人部屋。ひとり部屋でなくても自分たちの空間に高揚した。ベッドを左端に二つ並べ、勉強机は右の壁に仲良く二つ並べた。おじさんのアイディアで、右の壁一面に3段の長い本棚も取り付けてくれた。

一階は痛んでいた床を直し、出来る限り部屋の仕切りを取り払った。キッチンと居間の間はアパートから運び込んだ大きな食器棚で仕切られた。この家の唯一の難点は、トイレが狭かった。トイレは階段下、キッチンの左端に引き戸の入り口があった。引き戸の前に少しだけスペースを作り、キッチンからは出入りしないよう大きな冷蔵庫で壁を作った。決してパーフェクトとは言えない中古一軒家で、小学校高学年から5年間ぐらいを過ごした。その間に兄も“こども”とは言えない年齢に達し、こども病院の隣にある総合病院に転院した。


わたしが中学2年生になる頃、兄は突然足の痛みを訴え、歩いてトイレに行くことも難しくなった。食器棚の背につかまって何度も歩こうとするが、右足を押さえて顔をしかめる姿は、彼自身が拷問しているようで見ていられなかった。

翌日、病院でレントゲンを撮ってもらった。
「何も異常は見当たりませんね。何か炎症でも起こしているんでしょうから、様子を見ましょう。」と外科医はスタスタと診察室を出て行ってしまった。いつも寄り添ってくれたこども病院の先生達や物腰の柔らかい主治医と違って、この外科医はどうも好きになれなかった。

「本当に、おかしいねぇ...。どうしちゃったのか...。」

廊下に出された兄も母もわたしもどうすることもできなかった。きっとこうした悔しさで「将来はきっとわたしが!」と医師を目指す子どもが増えるのだろう。


数日経っても痛がる様子は変わらず、病院で再検査を受けた。今度は痛がる兄の股関節に何やら更に痛そうな注射までくらわせたが、結局原因は突き止められなかった。

しかし、かなり後になって股関節が骨折した跡が認められた。お陰で彼の右足は曲がったまま固まってしまった。

車椅子生活を余儀なくされ、畳と段差で埋め尽くされた今の家で、兄はお尻を引きずってしか移動することができなくなった。


両親は一念発起、水戸の家から引越し、父の実家の畑にバリアフリーの新居を建てることを決心した。これまで、週末になると住宅展示場を訪れては「この間取りが素敵」「こんなキッチンがいい」と将来のマイホームを幾度となく夢見てきた。そんな輝かしい夢をやっと叶える時がやってきたのだ。人生には本当にタイミングというものがあるらしい。

また早速従兄弟のおじさんがしょっちゅう我が家にやって来るようになり、間取りについてわたし達のわがままを辛抱強く聞いてくれた。あーでもないこーでもないと家族会議を繰り返し、おじさんはいつも直ぐに手直ししてくれて、あっと言う間に図面を仕上げてくれた。決めてしまえば、遠いと思っていた夢もあっという間に形が見えてくるものだ。

「今度の家は広いぞー!まず玄関入って廊下の直ぐ左がマー君の部屋。外にスロープを付けてこの窓から車椅子で直接部屋にも入れるぞ。隣は襖で仕切った和室。ここをお父さんとお母さんの寝室にすれば、夜でも直ぐ呼べるしマー君も安心だろ。

玄関上がって右はリビングダイニング。希望通り敢えて仕切らずにずどーんと広くしたからな。ただ、居間の和室の一角は収納式の襖を入れるから、ここだけ仕切って使うことも出来る。

キッチンはシステムキッチンを入れて、食器棚も全て取り付けるから、今のはいらなくなるな。水回りはここ。トイレも今の倍以上の広さだ。車椅子でもゆったり入れる。トイレとお風呂には手すりも付けよう。

二階は姉妹で別々の個室。ウォークインクローゼットもあるし、服はいくらでも取っ替え引っ替え出来るぞー。わっはっはっ」

完成した図面を家族みんなで食い入るように眺めた。おじさんも満足気だった。


仕事の早いおじさんは早速図面に合わせて材木も切りはじめた。そして基礎工事を始めようとしたある日、思わぬところからストップがかかった。

それは、土地を譲ってくれると言うダンプじいちゃんからだった。ダンプじいちゃんは、土地持ちで田舎の家の周りにいくつも田畑や山を持っていた。本家から一段下がった畑の土地を次男の父が引き継ぎ、そこに新居を建てる手筈を整えていた。

「長男より先に本家に家を建てることはできん。」今更感満載の申し出。黙って引き下がるわけにはいかず、週末には家族全員でダンプじいちゃんに異議申し立てに押しかけた。鼻息荒く挑む母の姿がある一方、平和主義の父は家族の板挟みで小さくなっていた。

「以前あの土地はいつでも自由に使って良いって言ってたじゃありませんか。」

母が意見すると祖母は「義父に口ごたえするとは何事だ!」と嫁姑戦争も勃発しそうな勢い。

二進も三進も行かない討論の末、感情が昂った姉は、兄を尻目に
「早く建てないとダメなの!お兄ちゃんの為の家なのに、家が建つ前にお兄ちゃん死んじゃうでしょうよー。ウワーン」と泣き出す始末。

これには流石の母も「お兄ちゃんは死なないわよ。」と苦笑い。

話し合いは数時間続いたが、結局ダンプじいちゃんとばあちゃんの決心は頑なだった。夢のマイホームは振り出しに戻ってしまった。

しかし、今度は仕事の早い材木屋のおじちゃんからストップのストップがかかった。
「もう木材も切ってしまったし、後戻りはできないぞ。」おじちゃんや父と仲の良い同級生仲間までもが父への説得を繰り返し、結局は作った図面が入る土地を探して改めてマイホーム計画を決行することになった。

それから母とわたしは暇があれば色んな候補地を見に行った。「ここは砂埃が全部家に入ってきそうだわ。」「日当たりが悪そう。」「ここの土地は地盤が良くないらしい...。」

そしてやっと出会った運命の土地は、石塚の家から10分程の静かな住宅街だった。200坪程の土地は既に完成していた南向きの図面もスッポリ入り、駐車場も家庭菜園をするスペースも十分にあった。

こうして夢の実現には思いがけない壁がいくつもあったが、最終的には家族全員にとってベストな家が出来上がった。マイナスイオンに包まれる木の香り、爽やかなスパイスとなる井草の香り、リビングの隅々にまで燦燦と差し込む陽の光、どっしりと構えた大黒柱と男前な梁、整然と並んだシステムキッチン。どの部屋にもゆったりとした余裕が感じられた。

水戸までは少し遠くなってしまったけれど、朝は出勤する父に学校まで送ってもらい、帰りはバスで帰宅するようになった。地域の介護サービスも利用するようになり、週に2回ほどヘルパーさんが兄の入浴も手伝ってくれた。


Vol.8 兄の部屋

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中学を卒業したわたしは、姉を追って水戸の高校に進学した。伝統ある女子校で、制服はダサくて有名だったけれど、わたしは密かにその制服に憧れていた。パンツが見えないギリギリまでスカートを引き上げてベルトで留め、腰のところで折り返す。上からダボダボのラルフセーターを着てスカートのヒダを整える。ローファーにスーパールーズソックスを履いて、脚が一番細く見えるポイントまで伸ばし、ソックタッチで留める。ひと口にルーズソックスと言っても、水戸が発祥と言われるだけあって、長さ、素材、ボリュームまでバラエティに富んでいた。高校3年間で、ルーズソックス→スーパールーズソックス→紺色ルーズソックスブームと変遷し、卒業前には紺色ハイソックスに落ち着いた。バッグは中学校のボストンバックを肩に掛けて歩くのが人気だった。皆んながあまりに同じ格好をしていたので、ラルフではなくラコステ、ローファーではなく紐付きの革靴を履き、パンチの効いたリュックを背負ってアレンジするのがわたしの拘りだった。

男子の居ない校舎内は女の楽園そのものだった。暑くなるとブラが見えるギリギリまでシャツのボタンを開け、寒くなると短いスカートの下にハーフパンツを履き、ジッパー付きのジャージを羽織る。先生達はそれを埴輪スタイルと非難したけれど、これぞ女子高生の醍醐味のひとつだと思っていた。


文化祭は女子校に男子が堂々と入れる唯一のチャンス。近くの男子高生がこぞってやってきた。

「あの人カッコよくない?」
「うん!わたしタイプー!!」
「あの人、ケイの兄貴らしいよ。」
「えーうそ!あんなカッコいいお兄ちゃんがいるの?!うらやましい!」

「そんなことないよー。」と照れながらもちょっと自慢気に近づいて行くケイ。どんなにカッコいい彼氏を紹介されるよりも正直嫉妬した。

この学校でわたしに兄がいることを知る友人はほとんどいなかった。もしわたしの兄が病に侵されることなく、違う人生を歩んでいたならば、身長は何センチでどんな顔になっていたのだろう。ホビット家系だから高身長は期待できないかもしれない。けれど、祖父の隔世遺伝でもしかするともしかしていたかもしれない。きっと男前になってモテていたかもしれない。これまでの治療や薬によって、骨格もパーツも彼の原型からはほど遠い。“本当はきっと誰よりもカッコよかった”と今でも信じている。


高校の部活は中学校に引き続きバレーボール部に入部した。先輩達が伝統に伝統を重ねてきた部活は、誰が決めたのかもわからない幾つものしきたりがあった。“このベンチに下級生が触れてはいけない”“先輩を見つけたらバレー部特有のイントネーションで挨拶をしなければいけない”“先輩がジャージを脱いだらすぐに気付いて畳まなければいけない” この畳み方でさえ細かく決められていた。

3年の先輩達は1年のわたし達にとやかく言う事はなく、憧れの格好良い先輩やいつも優しい先輩、場を和ませてくれる先輩など好きな先輩が多かった。しかし2年の先輩達はいつもわたし達を監視していて、何かあれば直ぐにお説教の時間が設けられた。

顧問はザ・スポ根アニメ世代の男性教師で、バレーボール歴は無いものの、見様見真似で精神を鍛えようと追い込んでくる。例えば、レシーブ練習の時には先生の掌に「先生お願いします。」と早口で言いながらボールをひとつひとつ両手で置く“ボール出し”という役がある。このボール出しの息が合わないと、至近距離でも構わずボールが顔面に飛んできた。昨今の体罰問題なんてお構い無しの時代だった。練習中にやる気が伝わらないものならば、千本ノックならぬ千本レシーブのしごきが始まる。いつも冷静と言われていたわたしは無論この標的になることが少なくなかった。

それでもわたしがこの部活を3年間続けてこれたのは、同級生12人の仲間達のお陰だと思う。共に先輩や顧問に小さな抵抗を続け、カラオケで発散し、マックで空腹を満たせばまた新たな明日がやって来た。鬼の合宿も嫌だ嫌だと言いながらみんなで乗り越えた。自分達が3年生になってからは、変なしきたりをなくし、先輩後輩の関係はもっとフランクなものになった。13人ひとりも辞めることなく3年間やり切った。

もうひとつ、この部活をやり切れた理由があるとすれば、兄の部屋の存在があったからだと思う。彼の部屋は玄関を上がってすぐ左手にある。わたしは家に帰ると決まってまず彼の部屋を覗きに行った。彼はベッドに横になって脚を組み、愛読書のコロコロコミックを読んでいることもあれば、車椅子に座って野球中継を観ていることもあった。読売ジャイアンツファンの彼は、ナイターがあるとメガホンを持ちながらテレビに向かって応援した。長嶋監督を筆頭に、3番松井、4番清原、5番高橋のラインナップは誰が見ても豪華だった。しっかり仕事をこなす仁志と川相、いやらしく攻める元木、安心感のある村田、ここぞの一発が期待できる清水がしっかりと脇を固めていた。ピッチャーには外国人助っ人のガルベス、ベテランの桑田と斎藤にルーキーの上原とゴールデンメンバーが揃っていた。一緒になって応援する時もあれば、“GLAYのライブが世界記録だった”とか“池袋で通り魔殺人があった”とか、お昼のワイドショーを賑わせたニュースを彼から聞くのが日課だった。

「今日は何してた?」と聞くと「何もしてないよ。」と返ってくる。「すごいフケ!」とからかうと、嫌がるわたしにわざとフケだらけの頭をスリスリ押しつけてくる。
平凡なこの部屋には、激しい部活の練習や厳しい先輩とのいざこざも浄化してくれる空気が流れていた。どんな悩みもちっぽけなものにしてくれて、外の世界から切り離された安心感があった。


真夜中に家族が寝静まると、二階のわたしの部屋には、階段下からゼコゼコと彼の呼吸が聞こえてくる。しばらく耳を澄ませて様子を伺うのだけれど、結局は駆け下りて吸引に向かうことが日常だった。彼は目を開けて「ありがとう」と言うこともあれば、寝ぼけたまま吸引後にはいつも安心した笑顔を見せてくれた。彼にとって痰が固まることが一番の脅威なのだ。安心した顔を見ると、もっと早く二階から降りてくればよかったと毎回後悔した。そして、一善施した自分にも花丸をあげてまた二階に上がるのだった。


しばらくそんな平和な日々が続いていたのに、兄は微熱が続いてまた病院に引き戻されてしまった。入院してからも熱は上がり、42度が2週間も続いていた。もちろん例のごとく原因はわからない。

「びっくりしないでね。」
面会の前に、母が姉とわたしを構えさせた。

久しぶりに見る兄の姿は、目は虚で息も早く、見ているこっちも苦しくなる程だった。2週間もこんな状態で生きていたなんて想像しただけで辛くなった。思わず涙がこぼれ、慌てて兄から目を背けた。

夕方の6時になると病室の前に夕食の入った配膳車が到着する。配膳車の中には、お盆の上に患者に合わせた献立が並んでいる。ご飯、お味噌汁、魚の餡掛け、ほうれん草の胡麻和え、フルーツサラダ。まずくはなさそうだけれど、プラスチックの容器がいかにも病院食を強調させた。虚な目をしている彼が食べられるとも思わなかったけれど、薄緑の盆の上に兄の名前を見つけ、とりあえずベッドまで運んだ。

彼は渾身の力で起き上がってベッドの端に腰掛けた。倒れないようわたしが隣に座って支えになった。手は震え、とても自力で食べられる様子ではない。代わりにご飯を一口すくって彼に食べさせようとしたその時、

「これは、僕がやるんだから!食べれなくなったら終わりなんだから!」
と信じられない力で押し倒された。

彼の力加減は麻痺していて、わたしを本気で押し倒そうとしたのか、ちょと押した程度だったのかはわからない。げっそりと窪んだ目の中は鋭く、怒っているのか泣いているのかも良くわからなかった。ただ、良かれと思ってしたことの代償としてはあまりにショックだった。これには見ていた母も驚いた様子だったけれど、彼は自分で食べることを生きるバロメーターにしているのだと言う。ほとんど食べているとは言えなかったけれど、その姿は「執念」という言葉がピッタリだった。

兄が夕食に満足した頃、わたしは母に呼ばれて廊下に出た。

「実は、先生に2回目の骨髄移植をしてみないかって言われているの。」

母はまたドナーとなるわたしの反応を気にしている様だった。もちろん二つ返事で引き受け、わたしの骨髄で治るのならば、こんな彼を一刻も早く楽にしてあげたかった。

翌日高校に登校するなり、わたしはバレー部のキャプテンのところに行った。
「あのさ、わたしに病気の兄がいるって前に話したと思うんだけど、覚えてる?今大分弱ってて...。それでね、骨髄移植しなくちゃいけなくなりそうなの。」
「骨髄移植って、よく分からないけど...。」
「簡単に言うと、わたしがドナーになって脊髄にある髄液っていうのを兄に移植するの。幼稚園の時にも一度やったんだけどね、またやらないといけないかもしれなくて。だから、もう部活はできなくなるかもしれない...。」
堂々と部活を休む口実ができて嬉しいはずなのに、急に泣き出してしまった自分に驚いた。急に聞かされたキャプテンも、何のことやらの展開に言葉が見つからない様子だった。

結局、2度目の骨髄移植は実現しなかった。移植したところで今回も成功するとは限らない。本当に必要な骨髄移植かも分からない…。

その後、彼は徐々に回復しまた我が家に平凡な兄の部屋が戻った。


Vol.9 花火

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姉は進みたい道を見つけ、大学は家を出て一人暮らしを始めた。翌年はわたしの大学受験。迷ったあげく、家から通える大学で地域福祉を学ぶことにした。弾けた大学生活を夢みて上京する友人も多かったけれど、時折介護ストレスが現れていた母をひとりにすることは考えられなかった。大学に入ったら早速車の免許を取って、兄を色んなところに連れて行ってあげたいと、密かな計画に胸も高鳴っていた。

しかし、大学生活は想像以上に楽しい毎日だった。高校ではスポ根部活の毎日で縁がなかった恋愛も、お遊び程度に楽しめるサークルも、大学には全てがあった。

嫌程続けてきたバレーボールを卒業し、何か違うスポーツも始めてみたかった。適度に汗をかく、程良いサークル。テニスひとつをとってみても、テニス部、テニス愛好会、テニス同好会など、テニスへの本気度合いと飲み会の気質にそれぞれのカラーがあった。中にはテニスとは名ばかりでほぼ飲みサークルのところもあった。

ラクロス、バスケットボールなどいくつかのサークルを見学した中で、何となく気に入ったサークルは、バスケットボール同好会、通称バス同だった。バスケットの練習も週2回そこそこ本気で、練習後の飲み会もあり、程良く楽しめそうなサークルだった。中高バレー部の隣ではいつもバスケットボール部が練習していて、泥臭いバレーと対照的なバスケのクールさにちょっとした憧れも抱いていた。そんな理由で、バス同に入会した。

バス同の練習に参加すると、モップ掛けは1年生が率先してやって欲しいという雰囲気はあるものの、厳しい上下関係は無に等しかった。車を持っている先輩達が1年生を乗せて練習場まで送り迎えもしてくれれば、練習後に先輩達のおごりで飲みに連れて行ってもらうこともあった。就職活動を終えてたまに顔を出す4年生達は遥に大人びて見えた。兄も通常であればこの先輩達と同じ学年のはずだった。

何度か先輩達と顔を合わせるうちに、わたしは4年生のひとりと彼氏彼女の関係になったのだった。

「俺の誕生日は5月30日。ゴミゼロの日。覚えやすいだろ。」
「ゴミゼロの日ね。覚えておきます。」



大学の長い夏休みが始まる頃、ふとテーブルに置いてある“ヘルパー3級講座”というチラシが目に飛び込んできた。わたしの通う大学の地域福祉ゼミは、卒業しても何かの資格が付いてくるわけではない。
「お母さん、わたしこれ受けてみようかな。」
テストもない気軽さと静かに湧いてくる興味がわたしをヘルパー3級講座へと向かわせた。

ヘルパー3級講座初日、20名程集まった教室のほとんどは母世代かそれ以上で、「親の介護が必要になったからきちんと学んでみようと思って。」とか「近々介護施設で働くことになったので資格を取りにきました。」という主婦層だった。19歳の女子大生であるわたしと、40代前半で唯一の男性受講者は明らかに浮いていた。

食事介助、着替えの介助、移動介助、洗髪の介助など、実践練習はいつもそのおじさんとペアだった。おじさんは緊張しているのか、プリンを食べさせる練習ではスプーンを口に運ぶのが早すぎて息苦しかったし、ベッドの上で洗髪の練習をした時はわたしの背中までビショビショにしてくれた。介護にはまるで不向きだったけれど、全員が無事にヘルパー3級の称号を手に入れた。

せっかくのヘルパー3級を活用できないまま、デート、サークル、飲み会、バイト、ゼミのメンバーや教授との出会いにも恵まれ過ぎて、思い描いていた兄との時間をすっかりなおざりにしてしまった。家に帰って兄に「今日は何してた?」と聞くと、相変わらず「何もしてない。」と返ってくる。一日中家で過ごすには限界がある。同級生達の就職や外で遊び呆けている妹達とのギャップに複雑な想いだったに違いない。彼の生活を気にしつつも、わたしは新しい世界に完全に引っ張られていた。あの頃YouTubeやNetflixやzoomがあったなら、彼の日常は忙しくなっていたかもしれない。

「新宿の母」ばりに兄の部屋が何でも相談できる空間になっていたわたしでも、彼氏とのことについてはあまり話をしなかった。それは、兄の恋愛や性についてどう向き合って良いのか分からなかったからだ。古風な我が家は性教育についてはとても消極的で、冗談でさえキスやセックスが話題にあがることはなかった。一般社会と少し距離のある兄でも、世間一般の男性と同じように悶々とすることはあったのだろうか。嫌な顔をする母を尻目に、父は兄にこっそりプレイボーイを買ってくることもあった。母は、彼の排泄介助をわたしに手伝わせることはなかった。わたしは覚えてきたケアを実践してみたかったけれど、彼の自尊心がそれを許さなかったのかもしれない。


夏休みのある日、彼氏とその友人達が我が家に遊びに来た。一緒にご飯を食べて、庭で花火を楽しむところだった。3つ年上の彼氏は、一年遅れて学校に通った兄と学年ではタメだった。彼氏には兄のことを話していたし、友人達も受け入れてくれる人達だということは間違いなかった。

しかし、わたしは自分でも信じられない行動をとってしまった。外から見えない様に兄の部屋のカーテンをさり気なく閉めてしまったのである。自分の正直な気持ちがそうさせた様でハッとした。


庭では花火の準備が整った。わたしはみんなに兄を紹介するタイミングを伺っていた。知られたくないような、知って欲しいようなわたしの一部。

「お兄ちゃんも一緒に花火誘っていいかな?」

彼らの答えはもちろんYESだ。とは言え、実際に兄を見て彼らはどんな顔をするのだろう。他人の反応には強気になれるわたしでも、仲間内で拒絶されたら立ち直れる自信がなかった。

そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、家ではいつもジャージ姿の兄がちょっとキメてジーンズを履いていた。見た目は普通だが脱ぎ着がし易い様に母がジッパーをアレンジしたお手製ジーンズだ。

ヨシ!と小さな覚悟を決め、車椅子に乗った兄を庭に連れ出すと、そこにはもう何の心配もなかった。人懐こい笑顔と人を惹きつける彼の魅力はいつの間にかみんなの輪に溶け込んでいた。次々と花火に火が付けられ、みんなの笑い声が湧き上がっていた。大きな打ち上げ花火を見上げ、わたしの目が涙ぐんだのは庭中に広がった煙のせいじゃない。兄も久しぶりの花火を見上げて満足そうだった。


兄と部屋に戻り、ヘルパー講習で習ったばかりの移動介助をやってみた。二人で息を合わせて車椅子からベッドに移る練習だ。練習相手のおじさんとは違い、曲がってしまっている股関節のせいで兄を上手く支えられないのが想定外。テコの原理が全く働かなかった。

「いち、にの、さん!」

結局は技も何もない力任せの移乗に終わった。勢い余って兄をベッドに投げ飛ばし、わたしも一緒にベッドに倒れ込んだ。二人で天井を見上げてしばらく笑いが止まらなかった。なんて楽しい夜なんだ。


Vol.10 インド

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わたしは大学で地域福祉を専攻したものの、高校時代にタイタニック主演のレオナルド・ディカプリオにドハマりして以来、海外への興味も膨らんでいた。海外プログラムを見つけては参加し、オーストラリア、カナダ、バングラデシュに行かせてもらった。そして、ゼミでは途上国開発に名のある教授に出会い、ユネスコ派遣の一員としてインドに行くチャンスを手に入れた。

日本全国から10名の個性豊かな大学生が集まり、3週間インドで識字教育の現場を視察したり、農村でホームステイしたり、現地の大学生と交流する。北から南インドへと移動も多く、ハードながら刺激的な毎日が続いた。

プログラム残り一週間程となり、一行はインド滞在中で最も郊外の農村に滞在していた。しばらく過酷なザ・アジアの生活が続いたことで、数日後からアグラで観光したり、バンガロールの都市に出て大学生と交流したりする楽しみがようやく見えてきた頃だった。

1日のプログラムを終え宿に戻ると、わたし宛に母から電話があったとフロントに呼び出された。こんな海外までわざわざ電話をかけてくるなんて、余程の急用だろう。家族の誰かが交通事故にでもあったのか、父が心筋梗塞にでもなったのか、兄に何かあったのか...。考えると震えが止まらなかったが、意を決してコレクトコールをかけた。

「こんなところまで追いかけてごめんね。伝えるべきかお父さんとも迷ったのだけど...。 もしもの時に後悔して欲しくないから電話することにしたの。」

「うん...。何かあった?」

「明後日の午後、お兄ちゃんが緊急手術することになったの。難しい手術だから、そのまま会えなくなる可能性もあるって。先生は、家族に集まってもらった方が良いって...。」

その言葉はとても鋭い牙のようにわたしの耳をすり抜けて胸に突き刺さった。わたしは受話器を持ったまま人目を憚からず泣き崩れた。

「そ...それ...で、お兄ちゃんはいつまで...生きられるの?」

「今回の手術次第。明後日の昼までに帰って来られれば、麻酔前のお兄ちゃんに会えると思う...。」

「わかった。絶対帰るから。」

出発前にそんな兆候は全くなかったのに、いつかと思っていた日が急に迫ってきたことが信じられなかった。わたしの分身は、遠くに離れた時にやっぱり不調を来すのだ。

驚き、悲しみ、不安、悔しさがグルグル入り乱れてしばらく涙が止まらなかった。


しかし、そうしてもいられない。明後日までにこんな辺鄙な所からどうやって帰ろうか。
団長の教授とインド人ガイドと早速の作戦会議。この時ばかりは、適当に見えた現地ガイドが頼もしく思えた。

明後日の昼から逆算すると、わたしは今すぐ出発するしかなかった。文字通り同じ釜の飯を食ったメンバー達に旅のリタイヤを告げ、早々に荷物をまとめた。

帰国プランはこうだ。夜通しで車を走らせ、最寄りの空港へ向かう。早朝には国内線で主要都市に飛び、夜の国際線で日本に向かう。約9時間のフライトで翌日の早朝には成田に到着。成田からはお昼までに茨城の病院に到着できるかギリギリの賭けだった。

そうと決まると、地元の青年が車を出してくれた。見るからに頼りない新米の運転手だったけれど、彼が無事に送り届けてくれることを信じるしかない。副団長に一行を任せ、団長だったゼミの担当教授自らわたしに付いてきてくれた。普段であればみんなに迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいになるところだけれど、迷惑を省みる余裕さえなかった。

真っ暗な田舎道に土埃をあげて車はどんどん進んでゆく。どこを走っているのかさえわからない。この時代にスマホとGoogle Mapがあったならば...。

しばらくすると、何やら雲行きが怪しくなってきた。運転手の彼に英語は通じないが、しきりにUターンを繰り返し明らかに迷っている。やはり新米運転手には荷が重すぎる任務だったようだ。目的地に辿り着くのか、予定のフライトに間に合うのか、予想だにしなかった真夜中の大冒険。

しかし、青年は見た目によらず良いヤツだった。夜中に庭先にいるローカルの人を見つけては窓を開け、ひたすら道を聞いてまわった。

真面目に任務を果たしてくれた彼のお陰で、わたし達は空港が開く前に到着した。彼と別れ、教授とふたり外のベンチでドアが開くのを待つ。中でスタッフが寛いでいるのを見ると、少しくらい早く開けてくれても良いものを...。わたしは我慢できずに中でトイレだけ借りて、また外に出された。

ようやく空港が稼働し始めると、昨夜予約したチケット情報が反映されていなかったのか、チェックインにもだいぶ手こずった。インドはIT大国だと聞いていたのに、大分アナログな対応に思わず教授と顔を見合わせた。


無事に国際線の空港まで到着すると、チェックインまで時間に余裕ができた。教授はわたしを近くのホテルに連れて行き、自分はロビーで待っているからと、出発までゆっくり過ごすようお風呂のお湯も溜めてくれた。数週間ぶりのバスタブは、体も心の凝りも一気に溶かしてくれるようだった。教授の粋な計らいで全てをリセットして日本に帰国することができた。

今回のインド派遣にわたしが選ばれたのは、“健康ポイント”が大きな要因だった。前回のバングラデシュ派遣でも、教授とわたし以外、派遣メンバーは一度は皆病院送りを経験した。例えどんなに優秀でも健康でなければインドで何も学べない。そんなわたしの超健康体が認められ、今回の切符を手に入れたのだった。

しかし、まさかわたしが家族の健康トラブルで帰国することになるとは、誰が予想できただろうか。わたしでさえ、兄のまさかが現実になるとは夢にも思わなかった。


成田までの機内は熟睡できたとは言えなかった。帰国後、方向音痴のわたしは駅員にしつこく聞きながら、空港から最短の電車を乗り継いだ。少しでも早く到着できるとなれば、ぎゅうぎゅうの通勤電車にも大きなスーツケースで乗り込んだ。

病院の最寄り駅に到着し、そこからはタクシーで病院に向かった。時計はギリギリお昼前、変な緊張が張りつめて冷たい汗が背中を伝った。

息を切らして手術室前に到着すると、兄はストレッチャーに横たわりちょうど戦場に入るところだった。間に合った!!

手術するくらい深刻な容体だとわかっていても、一見元気そうな様子にこちらが拍子抜けするくらいだった。


手術は危険が高いという理由で、結局は途中で続けられなくなった。術後も彼の見た目は変わらず元気だったけれど、応急処置ができたにすぎなかった。

彼の命のカウントダウンが始まった。


Vol.11 太陽

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応急処置の手術をしてから約2年。あの手術は本当に必要だったのかと疑問さえも消えた頃、兄の容体は急変した。それでも、いくつもの危機を乗り越えてきた彼だから、当然また過去の武勇伝のひとつになるだろうと信じていた。

母とわたしが泊まり込みの看病を始めてからもう10日が経とうとしている。

ゴミゼロの日。それは付き合っていた彼氏の誕生日で、友人達とみんなで、お気に入りのインディーズバンドのライブに行くはずだった。

「お誕生日おめでとう。」
「ありがとう。そっちはどう?」
「うん、あまり良くない...。一緒にお祝いできなくてごめん。でも、ライブ楽しんできて。みんなにもよろしくね。」
「そっか...。今も病院?」
「うん。今日もここに泊まる。」
「少しだけ会える?駐車場に行くから。」
「こっちに構わずライブ行ってきて!」
「病院着いたらまた電話するから。来れたら駐車場で待ってるよ。」
「うん....わかった。じゃあ、またあとで。」

彼氏が就職先の横浜から会いに来てくれたその夜、千葉で暮らしていた姉も病室に現れた。

「ただいまー!」

静まりかえった個室には完全に不釣り合いな姉の声。彼女の眩しい笑顔とエネルギーは、シリアスな空気を一気に吹き消してくれた。

メールでは伝えていても、姉も到着してやっとことの重大さに気づいたようだった。わたしも離れて生活していたら、「いつものことだ」と高を括っていたと思う。


石橋を叩いて渡るわたしと正反対の姉は、やりたいことに猪突猛進するタイプ。152cmと小柄な体格では諦める人も多いスポーツの道も、持ち前の根性で大学まで駆け上がった。在学中も気がつくとアメリカへ、ある時はカナダにスノボ留学まで行ってしまった。就職後はラクロスに魅了され、毎月ちびっこラクロス教室を開いている。家族でさえ彼女が何を目指しているのかわからないけれど、いつも後先考えずにやりたい道へと突き進む。最近では、里帰り出産中に父の家庭菜園に感化され、突然脱サラしてイチゴ農家に転身してしまった。そんな姉の性格を羨ましいと思うこともあった。

こうして並べると自由奔放な人間に見える姉だが、一方では幼い頃から人一倍わたしの面倒もみてくれた。


話は遡ってわたしがまだ小学校一年生の頃。今でも忘れない嵐の日。母は兄の面会に行き、姉とわたしは家でふたりきり。遠くに見えていた雷の光と音がだんだん近づいてきた。外を見ると、目の前の材木置き場には絵に描いたようなジグザグの稲妻がはっきりと見えた。眩しい光と雷音もほぼ同時。真っ暗にして潜んでいたわたし達の部屋は完全に雷に包囲され、今にも落とすぞと脅されていた。

ゴロゴロゴロゴロ、ドッシャーン!聞いたこともない地響きと共に、遂に我が家に雷が落ちた。わたしはもう我慢の限界だった。泣きじゃくり、一刻も早くどこか安全な場所に逃げたかった。携帯電話もポケベルもない時代、病院にいる母へわたしの声は届かない。姉は黒電話で第二の母の番号を回し始めた。

「おばちゃん、助けて!迎えに来て!」

受話器越しに援護射撃でただただ泣きじゃくるわたし。

「おばちゃんも迎えに行きたいけれど、生憎今日は車がないの...。でも、もう少し頑張って待ってて。必ず迎えに行くから!」

しばらくして、第二、第三の母の連携プレーでわたし達は無事に保護された。それまでわたしをなだめていた姉は、おばちゃんの顔を見るなりわたし以上に泣きじゃくった。溜めに溜めた涙が一気に噴き出たようだった。

以来わたしは小学校高学年まで、雷がこの世で一番恐ろしいものになった。遠くでピカピカ光る空を見つけようものなら、襲ってくる前に寝てしまうという術も覚えた。気持ち良く寝ているうちに、雷の襲来をやり過ごすのだ。


わたしが就職後に都内で一人暮らしをしてからは、姉が家に入り浸るようになり、しまいにはふたりでシェア生活を始めた。朝には素敵女子的なお弁当まで持たせてくれる時も度々あった。毎週水曜か金曜にはふたりでお疲れさま会を楽しんだ。会社帰りに駅近の安い焼鳥屋で集合する。安い割には美味しくて、焼酎も並々注いでくれる店がふたりのお気に入りだった。そこでたらふく飲み、帰りにコンビニで二次会用のスイーツとお酒を買って家に着く。決まって最後にはふたりとも寝落ちしてしまうのだけれど、翌朝には身に覚えのないテーブルの残骸を見て後悔するのだった。


そんな面倒見の良い姉だけれど、大学生活はわたし以上に自分の時間を満喫していた。久しぶりに家族の現実に引き戻され、彼女は少なからず罪悪感を抱いている様だった。

「家に居なくてごめん。」

そんなことはない。外にいたからこそ場違いな程に明るく現れてくれた姉は、わたしたちには眩しい太陽に見えた。それまでの空気にリセットボタンを押して、また頑張れると思わせてくれた。

姉は家族の中でそんな役割を果たしてくれる太陽みたいな存在なのだ。


Vol.12 旅立ち

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姉が来てからは、交代で兄の容態を見守った。たとえ代わると言っても、結局母はうとうとするだけで兄のそばを離れることはなかった。

兄は時折体を左右に激しく揺さぶり、頭をベッドの柵に打ち付けて発作を起こした。発作の間、わたし達は彼の肩をベッドに力いっぱい押さえ付けた。どこにそんな力を蓄えていたのか不思議なくらい、彼は抵抗する。

そんな殺伐とした発作の最中、医師が部屋にやってきて母を呼び出した。ガタガタ揺れるベッドに目もくれず、こんな時にだ。今日はたまたま主治医が外出していて、以前からわたしが好かない先生が診てくれていた。股関節の骨折を見抜けず、いつも横柄な物言いをするところも気に入らなかった。それでも、今は彼を頼るしかない。

しばらくして、廊下に呼び出された母が戻ってきた。先生によると、脳に血液が溜まり、いつ逝ってもおかしくない限界が来ていると言う。いくら今日が山だと言われても、未だに何の実感もない。これまで幾度となく窮地を乗り越えてきた兄と、また家で一緒に暮らせることをただただ信じていた。

「先生!先生!助けて!」

兄は発作に苦しみながら、主治医を探して叫んでいた。彼は渾身の力で必死に生きようとしている。これまで笑って話してきた武勇伝の裏には、こうしてもがいて生き抜いてきた兄の姿があったのだ。

しばらくして発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。

「ゾウがいる...。」「女の子がやってくる...。」
幻覚が見えている時も多くなった。

彼の額を撫でて心の中で呟いてみる。
“もう十分頑張ったよ。楽になっていいんだよ。”

“僕はまだ生きたいんだ...。”
彼の返事が聞こえた気がした。

“わかった。悔いなく生きて。そばにいるよ。”
彼の手をギュッと握った。


この看病中、他にも今まで知らなかった兄の一面に驚いたことがあった。
お世話になった婦長さんが彼の様子を見に来てくれたあの日。それまで辛そうだった彼が、見違えた外面の顔になっていた。「寝てていいわよ。」と言う婦長さんに「せっかく来てくれたんだから!」と起き上がって肩を組み、笑顔を見せた。

社会に出られず世間知らずだと思っていた彼にも、そんな一面があったのがとても意外だった。そして、強くて優しい彼を心から尊敬した。


良く晴れたその日の午後、わたしは車を走らせ家に洗濯物を取りに帰った。久しぶりにシャワーも浴びてすっきりしたかった。

「運転、気をつけてね!」

ここでわたしが事故でも起こしてしまっては元も子もないが、母の忠告とは裏腹に田舎道を思い切り飛ばしたい気分だった。

ささっとシャワーを浴びてスッキリすると、今すぐ兄の元に戻りたくなった。何だか、彼がこの間にいなくなってしまうのではないかという不安が押し寄せてきたのだ。

急いで病院に戻り車を停めると、見舞いに来ていた第二の母がわたしを見つけて叫んだ。

「早く、お兄ちゃんのところへ!」

悪い予感が的中した。

家から持ってきた洗濯物を置き去りにして階段を駆け上がると、病室で母と姉が兄に懸命に呼びかけている。いつも笑わせてくれる父は既に肩を落としていた。家族以外、医師や看護師達で彼の個室は賑わっていた。わたしも急いで彼の頭に駆け寄って何度も呼び続けた。

「お兄ちゃん、行かないで!

   お兄ちゃん、帰ってきて!

     お兄ちゃん、まだ生きて!!」

彼は三途の川への道も帰り道も知っているはずだ。呼び続ければきっとまた戻ってこれると信じて呼び続けた。目の前で起こっている現実に必死になる一方で、わたし達が幻覚の中にいるくらい非現実とも思えた。

兄はついに逝ってしまった。幼い頃からいつかと思っていた日は、2003年5月31日の今日だった。


お世話になった看護師さん達も涙を流しながら、旅立った彼の身体を綺麗にしてくれた。

わたし達が一頻り落ち着きを取り戻した頃、叔母も駆けつけてくれた。叔母はついさっきまでわたし達がした様に兄を見て泣き崩れたけれど、その頃には、悲しみよりも最期まで頑張った彼を称えたい気持ちが生まれていた。看病をこれ以上続けさせないように逝った兄の優しさも感じていた。いつしか死にかけた彼を暗闇から引き揚げた誰かに、そろそろ良いのだと認められてしまったのかもしれない。


兄が家に帰る手続きをする間、父は車のハンドルに額をつけて俯いたままだった。父のワゴン車にも兄との思い出が詰まっている。まだ暖かい兄の身体を母が支え、家まで最期のドライブ。

出発しかけた時、主治医が駆けつけてくれた。

「助けられなくて、申し訳ない。」先生は頭を下げた。

「兄は、これまで先生に診てもらえて幸せだったと思います。助けて!って必死に先生を探していました。先生のことを心から信頼していました。これまで本当にありがとうございました。」

これまで幾つもの荒波を一緒に乗り越えてきた主治医に、兄が感謝している気がして、わたしはとっさに口走り深々と一礼した。

兄を乗せた父の車を見送り、自分の車に乗り込むと、しばらくその静けさに包まれたかった。この数時間に起きたことが未だに信じられないでいる。少し前に車をここに停めたところから、ひとつひとつ記憶を追いかけてみた。全て夢であって欲しい。

じわじわと現実味と哀しみが波打って、それはやがて大きな津波となって押し寄せた。襲いかかる真っ暗な闇に飲み込まれてしまう前に、エンジンをかけてそれを振り払った。ステレオからはHYのモノクロが流れていた。

今日も見つけた君の姿 つい見とれて前も見えない
この想いを胸に秘めたまま 君をそばで感じていよう

恋愛の歌詞でさえ、兄への想いに変換されて胸に刺さった。

「そばにいてよ!もっとそばにいさせてよ!!」

HYの大音量に、泣き叫ぶ声さえもかき消してもらいながら車を走らせた。何度も往復して見慣れた田舎道。街路樹は新緑を纏い、青空に向かって逞しく幹を伸ばしている。苗が真っ直ぐに整列した田んぼは初々しく、水面が眩しい程に輝いていた。外はこんなにも気持ち良く晴れているのに...。


その日は土曜日で、ちょうど家の近くの体育館ではバス同の仲間達が集まって練習していた。家から近いという理由で数週間前にわたしが体育館を予約したのだった。予約した張本人が居なくても問題なく鍵を開けてもらえたようだったけれど、何となくの感情がわたしを体育館へと向かわせた。誰かに会ったら涙が溢れ出てしまうかもしれないけれど、心配も同情もされたいわけじゃない。ただ家族以外の誰かに会って、ふと平凡な日常を感じたいだけだった。


しばらく現実逃避して家に帰ると、兄は先に帰宅し真っ直ぐベッドに横たわっていた。曲がった股関節を伸ばされても、もう痛がることもない。顔も穏やかなのに、目を開けてくれることも、ゼコゼコした呼吸を聞かせてくれることも、もう二度とない。怒ることもない彼をギュッと抱きしめて額にキスした。

今までお疲れ様、ありがとう。


Vol.13 お別れ

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父と母がリビングでお通夜やお葬式について話している間、わたしは兄の頭を撫でたり、顔を摩ったりしていた。けれど、やっぱり彼はずっと穏やかに眠ったままだった。

少し経ってから彼氏やサークルの親友が様子を見に家まで来てくれた。その時は悲しくて泣くというより、心の中が空っぽになってしまった様で、むしろ何の感情もなく笑顔が作れた。

どこからともなく葬儀屋も現れ、「早速ですが...」とお通夜やお葬式のプランを広げていた。棺桶は、お花は、と決めることが多すぎて、家族が哀しみに浸る余裕さえ与えてくれなかった。「今はそっとしておいてください。10日後にまた来てください。」 できるものならそう言いたかった。けれど言われるがままに準備は進み、居間には着々とお通夜の用意が運ばれた。

続いて町内会の会長さんが近所の人達を引き連れてやってきた。石塚では、お葬式を町内会で仕切るのが古くからの慣しだった。決めることだけ決めたら、家族は無闇に手を出してはいけない。朝早くから夜まで色んな人が代わる代わる家に上がり込み、お茶出しやら会場設営やらを手伝ってくれる。

石塚の町内会はだいぶ高齢化していて、引越してきたわたし達が一番若い家族だった。近所の人達が、毎日手持ち無沙汰な様子で家に居るのは、正直心地良いものではかった。家主は「湯呑みはどこですか?」「お茶菓子ありますか?」と聞かれることに指示だけ出す。有難い一方、お年寄り達にやってもらうのも気が引ける。そして、手伝ってもらう人達に毎食お礼の仕出しを用意するのにむしろ手がかかる。伝統、風習とは概してそういうものだ。

お葬式の準備を進めていくと、父がはじめに「家族葬が良い」といった気持ちも少し理解できた。けれど、やっぱり兄は多くの人に見送られた方が喜ぶに違いない。

遺影には、同級生だった寿司屋の息子とツーショットで撮影した時の写真が使われた。寿司屋の息子は名前も同じく"まー君"で、幼稚園の頃から事あるごとに兄に会いに来てくれた。常に一緒にいる訳でもない付かず離れずの男の友情は傍から見ると不思議なもので、学校を卒業した後もずっと続いていた。写真の中の兄は自然体そのままの笑顔を見せ、男同士で少しだけ格好つけた凛々しさも漂う素敵な写真だった。


お葬式当日。お経をあげてくれたお坊さんは父の同級生だった。親戚、第二第三の母達、兄の友人達、初恋のしのぶちゃん、園長先生、学校の先生達、寿司屋の一家、兄の折り紙ファン、引越し前に住んでいた近所のおばさまグループなど多くの人たちが、兄の旅立ちに集まってくれた。

園長先生は、会うなり涙を堪えきれず母と抱き合った。
「ちょうど久しぶりに、家に飾っているマー君のおりがみ作品を何気なく眺めていたところだったの。そしたら訃報が届いて...。マー君が知らせてくれたみたいだったわ。」


一階は居間もダイニングも親戚や町内の人たちに占拠され、二階の姉の部屋が家族の休憩所となった。父は合間を縫って時々タバコを吸いにやって来た。


「お父さん、大丈夫?お水飲んで少し休んだら?」
「あぁ、大丈夫。」
「喪主の挨拶も大丈夫?」
「あー、そうだな。少し考えておいた方がいいな。」


タバコをボールペンに持ち替えて言葉を並べようとした時、一階から誰かが父を呼んだ。その後も何度か二階にあがって来ては父が呼び出され、挨拶文は一向に完成しなかった。


「お父さん、挨拶は私が書いてあげるよ。」見かねた姉が買って出た。
「そうか。そうしてもらえると安心だ。」
いつも宴会隊長の父は、人前で話すことは得意だったけれど、今回ばかりは心の整理が必要のようだった。


「本日は、雅之の為にお集まり頂き誠にありがとうございました。故人も皆様に見送られ、喜んでいることと思います。生前お世話になった皆様に心より感謝申し上げます。
 
 3歳で原因不明の病に冒され...20歳まで生きられないと言われましたがっ、彼は...... 彼は...24年の人生を、精一杯...、精一杯生き抜きました!
 どうか、雅之がこの世で生きたことを忘れないでやってください。」

父は皺苦茶の泣き面で深々と頭を下げた。俳優顔負けのスピーチに多くの参列者が目頭を抑えていた。父が久しぶりに格好良く見えた。

           *


お葬式がひと段落し、埋め尽くされていた居間にぽつりぽつりとスペースが空き始めた。最後まで残っていたのは、母を囲んでいた第二第三の母達だった。

玄関で見送るわたしにみんな口々に「お母さんのことよろしくね。」と託して帰っていった。

「うん。わかってる。」

“わたしも辛い” とは言えなかった。支えになってくれる彼氏や友人達にさえ、話を聞いてもらうより、ただただ独りで泣きたかった。


Vol.14 兄のいないセカイ

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大学を卒業し、わたしは初めて実家を出て上京することにした。医療や介護にどっぷり浸かっていたこれまでの環境から脱し、キラキラとしたOLへ羽ばたくことを夢見ていた。

しかし、結局はこれまでの人生に導かれるように、介護の道へ舵を切っている自分がいた。兄の様に障がいがあっても、どんな人でも外出することを諦めない世の中を創りたい。就職活動を進める程にその想いは膨らんだ。

就職後は、社会の荒波に溺れながらも必死に浮上する毎日だった。就職三年目になってようやく大役が回って来た時は、石の上にも三年とは良く言ったものだと実感した。わたしは、高齢者施設に入居した人達の夢を叶える「輝きプラン」を任されていた。今思えばもっとマシな名前があったハズだと恥ずかしくなるけれど、当時はそれがピッタリのネーミングだと自負していた。たとえ高齢で寝たきりでも、どんな人にも夢がある。その夢を叶えて、本人も家族もそれを支えるスタッフさえも元気にしてしまおうという一石三鳥ものプロジェクトだった。

95歳の紳士が念願のダンスパーティで車椅子から立ち上がった時、夢はどんな治療やリハビリより生きる力になることを教えてくれた。兄にとって生きる力は何だったのだろう...。それから83歳認知症の方との高尾山登頂、92歳の家族と鎌倉旅行、100歳でも舞台で主役になれるコンサートと、数々の夢が実現した。正にわたしの天職と思えたが、兄にしてあげられなかった沢山のことを、他の誰かで償っていたのかもしれない。


プロジェクトが全国32箇所の施設で軌道に乗ってきた頃、わたしは素敵な90歳のご夫婦に出会った。

「改めて叶えたい夢を教えていただけますか?」
「そーだなぁ。私はまた海外を旅したいなぁ。」

若い頃に世界を股にかけてビジネスをしてきたその紳士は、車椅子に乗ったご婦人を見つめながら答えた。

「皆さんにお世話になりながら旅には行けても、この身体では無茶できないからね。君も、何でも出来る若い時にどんどん旅に出ると良いよ。」

"お金も地位も名誉もある人達が人生の最終章にしたいこと...。今のわたしには出来る!"

その紳士の言葉に背中をおされ、わたしは世界を見てまわる決心をした。いつか見てみたかった広い世界、兄も行きたかったであろう外の世界を一年かけて周ってみることにした。

この世に生を受けて以来、医療介護のセカイで生きてきたわたしが、この時初めて本当の自由を手に入れたのかもしれない。誰に押し付けられたわけでもないけれど、勝手に担いだ十字架の呪縛は、解き放たれた。この世界一周をきっかけに、人生のシナリオは全く新しいストーリーに書き換えられた。


それから7回の命日が過ぎ、2011年に東北で未曾有の大震災が起こった。わたしは今でも被災した子ども達の自立支援活動を続けている。そこで出会う多くの子ども達からは、様々な被災体験を聞かせてもらう。「初めて人に自分の体験を話した。」「みんな大変な中で自分だけ辛いなんて言えなかった。」と言って泣き崩れる子も少なくない。わたしもあのお葬式以来、家族の前で泣くことはなかった。彼ら彼女達の経験は簡単に受け止められるものではないけれど、そんな気持ちだけは分かり合えるものがある。

           *

兄を失ってからはじめの5年間、夢か現実かの境目も分からず毎晩の様に涙が溢れた。その後の5年間は、彼を忘れてしまうことの方が怖かった。わたしの分身でもある彼は今でも何かで繋がっていて、体調を崩す日には決まって夢に現れる。

17年経った今、彼と過ごした日々は、確実にわたしの中に温かいものを残してくれた。今でもはっきりと思い出せるのは、彼のくしゃくしゃの笑顔と懸命に生きようと必死だったあの顔、穏やかに眠るあの顔と、彼と過ごしたいつくかのストーリー。彼がどんな声で話していたのかは、もうおぼろげだ。

毎年やってくる5月31日、わたしは決まっておすしを食べている。

The End


あとがき

これは、兄とわたしと家族の事実に基づく物語。あの日から幾度となく兄との様々なストーリーを書き留めようとしてきた。彼が居なくなってから初めの5年は、感情が高ぶりすぎて書けなかった。次の5年は思い出が鮮明すぎて、どこから書いて良いのか整理できなかった。そして17回忌を迎えた今、微かな記憶を辿りながら、薄れゆく兄との思い出を書き留めておきたいと思った。

予想だにしなかった世界的なパンデミック。5月になっても帰省できずにstay homeを余儀なくされたわたしには、その余裕を与えられているようだった。ロックダウン真っ只中のセブにいる間、燦燦と降り注ぐ太陽の下を毎日散歩しながら、次の章を考えるのが日課となった。

書き上げてから手直しを繰り返し、沢山の人たちのサポートでようやく最終章までお披露目することができた。特にIsooさんには毎回的確なアドバイスと素敵なビジュアルを制作頂き、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。

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印象に残っているひとつひとつのストーリーを振り返ってみると、それぞれのシーンで家族が各々の役割を果たしていた。まさに持ちつ持たれつやってきた。そして、ひとつひとつの経験が、否応無しに今のわたしの人格として染みついていることにも気付かされた。

実話に基づいていることもあり、色んな方に読んで頂けるのは、少し恥ずかしくもある。今回、幼少期から順を追って小説にしたことで、幼なじみ、小学校・中学校・高校・大学の同級生、先輩や後輩、社会人になってから出会った友人達、今まで仕事上でしか話す機会がなかった方々からも、嬉しいことに多くのメッセージを頂いた。

読んでくださった方々には、幼少期からずっと見守ってくれていた親戚のような感覚さえ覚えた。温かく包まれる安心感というのだろうか...。何とも言えない不思議な感覚が芽生えた。今度対面で会う時には、勝手ながら、お互いの距離が近くなっているような気がして楽しみでならない。


頂いたメッセージの多くは、有難いことにあの時わたしをどう見てくれていたかも教えてくれた。周りにいる人達が、実は同じ様な経験の持ち主だということにも気付くことができた。この小説を書かなければ、なかなか知る機会は得られなかったと思う。

実際に病気の子どもがいる親達や医療福祉関係の方々からも毎回貴重なコメントを頂いた。今を生きて闘っている人たちの励みになれば嬉しい。

読んで頂いた方々と、この小説で取りあげたテーマを基にいくつかの対談もさせて頂いた。


久しぶりに連絡をくれた人たちがいたのも、また嬉しい驚きだった。人それぞれ誰の人生にも素敵なストーリーがある。そんな人のストーリーを聴くのが、わたしは好きだ。近況報告から悩み相談まで、小説を通してまた色んな人たちと繋がっていける様な気がする。

出版&映画化を目指す挑戦はまだまだスタートしたばかり。これからも多くの人との出会いを楽しみながら、一歩一歩進んでいきたいと思う。
そして、今後も世界一周の小説「世界教室」や他のテーマも書いていきたい。

          *


20歳まで生きられないと宣告された兄は、多くの人に愛されながら24歳までの生涯を精一杯生き抜いた。それでも彼はもっともっと生きたかったと思う。

今の医療技術でも尚、何百万人もの人達が原因不明の病で苦しんでいる。命ある限り、希望をもって一日一日を精一杯生きて欲しい。どんなに短い命でも、太く貪欲に生きて欲しい。そして、その家族の献身的なサポートには心から敬意をお伝えしたい。

この世に生きたいと願う沢山の命が救われます様に。

Sato

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