自分が自分である場所。
古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』を読んで泣いてしまった。
古賀さんのnoteで、読み手は中学生を考えているというような内容が書かれていたので、中年の私にはハマらないだろうなぁと、これまで手にしてこなかった。しかし、ここへきてふと「古賀さんは書くことについての何をどんなふうに中学生に伝えているんだろう?」と、そこに興味が出てきた。それで、世に出てからだいぶたった今頃になって読みたくなった。
で、読んだ。
そして、泣いた。
そこには、私がなぜ昔から書くことが好きだったのかの答えがあった。
私の中では「昔から書くことが好きだった」の一言で止まっていた思考の奥へと、この本は深く深く誘ってくれた。
私はなぜ書いてきたのか?
当時はわかっていなかったけれど、あの頃の私は、周囲に理解者がいないことが寂しくて、でも周囲に理解されないからといって自分を捨て去ることはできず、だから、まずは自分が自分を受け入れてあげたくて、自分は自分のことを否定しないでいてあげたくて、それで書いていたんじゃないか。
本を読んでそう感じて、あの頃のキリキリとした必死さを再体験して涙が出たし、書き続けた結果の今の自分が幸せであることにも思い至って、そのことにも涙が出た。
物心ついてから思春期まで、自分と対話する大事なツールだった書くことを、私は職業にしてしまった。
好きなことを職業にできたことはラッキーでしかないと心から思う。
ただ、同時に、若き私は書くという行為の多様なあり方を整理して理解できていなかったので、あっという間に「ああいう文章はダメだ」「こういう文章がいい」というものに縛られるようになった。
もしかしたら、縛られたおかげで、25年もライター業で食べてこれたのかもしれない(何なら編集長までやらせてもらえた)。
けれど、昨年、そういうの、一切合切、手放したくなった。
それで、自分の意識の上ではライターを名乗るのをやめようと決めた。
そしたら、すごく楽になって、その先の景色が見えてきた気がしたのに、縛られることに慣れてしまっていた私は、今度は、ヨガ講師として、IHプラクティショナーとして書こうとまた自分を縛りはじめた(無意識のうちに)。
どんだけ縛られ好きだ。
もちろん、ヨガ講師として、IHプラクティショナーとして文章を書くことも私のやってみたいことではある。
同時に、私はただ書きたいのだ。
自分の思考を深めるために。
自分の思考を深めるために書いている文章をなぜ世にさらすかというと、私はあの頃の自分に届けたいのだ。
私は書くと同じくらい読むことも好きだったのだけど、その理由の一つは、私にとって文章ほど人の頭の中を覗けるものはなかったからだと思うのだ。
生き方に迷いまくっていた若かりし私は、私より先を生きている人の考えていること、やっていることを知れるのが楽しかった。
人の考えや生き方を覗けるのは、もちろん文章だけではないけれど、私にとって文章ほど生々しくリアルで嘘が少なく感じるものはなかった。
なんて書きながら、でも、嘘がまったくない文って難しいよな、と自戒もする。
ただ、私はこれに関してはわりと真摯に取り組んでいるという自負もある。
ライターでもコピーライターでも嘘は必ずバレるから、自分の中で嘘にならないところを探して書けと教わって、心がけてきた。
25年ライターをやれたのは、もしかしたらそっちが理由だったかもしれない。
いや、きっとそうだ。
そういうことにしてしまおう。
社会では人はいろんな役割を求められるから、自分に嘘をつかないでいるって、言葉にするよりずっと難しい。
私はそこにチャレンジしたくて人生後半を生きているが、そこにチャレンジしない人でも、少なくとも自分に嘘をつかないでいられる場を保持しておくのがいいと老婆心ながら言いたい。
書くことはその場になりうる。誰にも邪魔されない、自分が自分であれる場に。
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