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方丈記とサステナビリティ

『行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀に浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし、世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。』

「方丈記」の冒頭。

本屋さんをぶらぶらしていて、なんとなく古典コーナーに行き、なんとなく手にとってみた本。

そう言えば、大昔、学校では冒頭だけしか読んでいないなあ、暗記させられたなあと思い起こす。

一度、最後まで読んでみるかなと、文庫本を買い求めました。

角川ソフィア文庫の
「ビギナーズ・クラッシック 日本の古典」シリーズは
解説が丁寧で読みやすい本です。

方丈記は鎌倉時代(1212年)に成立されたと言われていますが、この当時、天災や疫病、動乱が10年、20年の間の短期間に集中的に発生しており、世の無常感が漂う中でのエッセイ。

安元の大火(1177年)、治承の竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の饑饉(1181年)、元暦の地震(1185年)のそれぞれの天変地異、社会動乱が細かくリアルに記されいます。

築地(ついひじ)のつら、道のほとりに、飢ゐ死ぬるもののたぐひ、数もしらず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちあらさま、目も当てられぬこと多かり。いはんや、河原などには馬・車の行き交ふ道だになし。

(土塀の外側や道路の端に、餓死者などの死体が無数に放置されたままだ。それらを処理する方法を知らないので、死臭が京の街に充満した。また、死体が腐乱して形が崩れていく情景など、むごたらしくて目を背けるようなことが多かった。まして、道端より広い賀茂の河原などが絶好の死体置き場にされたことはは言うまでもない。ここには、馬や牛車の通れる道さえもないほど、無数の死体が山積みされた。

同書p68:〔17〕惨状の実態報告

短期間でのこれほどの変動。

この状況は、今の時代になにやら似通っている感じもします。

現代も様々な、自然の天変地異、人為的な社会変動などは起きているものの、当時に比べれば科学技術の発展、ライフラインの整備、復旧が格段に進んでおり、全体的な厭世観、無常感までは漂っていないかもしれない。(それでも被災された地域はなかなかしんどい状況にはなっているのは確かですが)

いや、もう漂い始めているのだろうか。

今後そのような雰囲気が漂ってくるのだろうか。

その発生源はどこなのだろうか。

さて、方丈記の後半は、自分の家系や京の街を離れて住む庵、山中での生活環境について述べています。

その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。
(新たに作ったその家構えは、世間一般のものとはまるでちがう。広さはやっと一丈四方(約3m四方。今の四畳半)で、高さは七尺(約2m)にも満たない。

同書p107:〔28〕終の棲家は方丈の庵

この四畳半の庵の広さ「一丈四方」の生活から「方丈記」という書名がつけられたようです。

山中での生活は、世俗を離れて自由に生きる様、信条が自然の四季風景とともに語られています。

さて、庵を構えた場所ですが、日野山という京の街から離れたところ。

今でいうと京都市伏見区で京都の郊外のイメージ。

私自身は関西地方、京都の地理は疎く土地勘はないので、そう言えるのかどうか分かりませんが、Google mapで方丈の庵跡地を見てみると、行こうと思えば直ぐ京の街に行ける距離感のような。

今の時代感覚と平安末期・鎌倉時代の京の街と周辺地域の距離感覚はちがっているとは思いますが、まったくの人がこない孤高の土地ではなく、人里ちょっと離れた程よい距離感のところではなかったのか、とも思ってしまいました。

この日野は無人の深山ではなく、人里にちかくて水にも薪にも困らない、と自慢気に語る(第三十章)。ということは、長明の移住する以前に開発済みだったのではないかと予測される。

同書p167:解説

上記の解説者の考察を敷衍して考えると、今風に言えば鴨長明は里山ライフのような、都会と自然の中間地帯でのバランスの取れた生活を実践していたのではないか。

また、無常と言っても、厭世気味というよりは、現実の飢饉、火災、地震なども経験しているものの、世の中は「常に一定の状態は無い」という意味合いを抱き、その「無常」の世の中を賢明に生きるにはというテーマを綴ったのではないか。

今風に言えば、戦乱、天変地異の無常の世の中で、サステナブルな生き方を積極的に実践した人とも言えなくはない。

欧米のサステナビリティ関連本もいいですが、日本古来のサステナビリティ本として方丈記は位置付けられるのではないか。

方丈記は最先端のサステナビリティ本なのかもしれない。

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