北畠顕家と斯波家長が激突!杉本城の戦い【鎌倉市】
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お久しぶりです。
しばらく大学のある神奈川に行っていました。
滞在中、鎌倉で一番古いお寺杉本寺に行ったので記事にしたいと思います🌿
杉本寺は大倉山という小さな山に建っています。
この大倉山には、かつて杉本城というお城があり、南北朝時代激しい鎌倉攻防戦が繰り広げられました。
杉本城の戦いです。
この戦いの主要な人物は、
北朝方(鎌倉府)の足利基氏(7)、
その執事・斯波家長(17)、
南朝方の義良親王(9)、
義良親王を奉ずる北畠顕家(20)、
南朝方に加勢した北条時行(12?)、
新田義貞の嫡男・新田義興(6)
何よりも戦の中心人物の若さに目がいきます。
これら将来が期待されていた若者たちによって大激戦が繰り広げられました。
今回は杉本城の戦いの主要人物であり、実際に軍事指揮権を持つ北畠顕家さんと斯波家長さんにスポットを当てたいと思います。
北畠顕家
言わずと知れた、戦う貴族です。
鎮守府将軍として東北に赴き、多賀城を拠点に、北条氏の残党や建武の新政に従わない武士の鎮定にあたりました。
(女性と見紛う美少年だったようで、別名花将軍)
また、足利尊氏の京都占領に対し後醍醐天皇から出陣要請が来ると、豊臣秀吉の中国大返しを遥かに上回る速さで京に進撃。
(しかも秀吉が京に退却したのに対し、顕家は戦いながらの進軍)
足利軍を京都から一掃します。
戦で負けなしの足利尊氏が敵わなかったのが、この北畠顕家なのです。
後にルイスフロイスは、顕家さんの複数回の侵攻を、その猛々しさや進軍中に略奪行為があったことなどから「日本の十字軍」と残しています。
杉本城の戦いは、この奥州大返し(勝手に命名)の1年後、2度目の京都急襲のために起こりました。
1度目の京都進撃と違い、関東は足利派が盛り返していたため、鎌倉を落とさなくては進撃できなかったのです。
顕家さんは杉本城の戦いで勝利した後、青野原の戦いなど京に着くまでも連戦連勝しますが、この5ヶ月後、石津の戦いで高師直に討ち取られました。
斯波家長
この方は、父親の方が有名かもしれません。
父は足利高経。
現在は斯波高経と呼ばれることが多いですが、足利一門で、当時は足利姓を使っていました。
勇猛果敢で戦に強く、この杉本城の戦いの1年後、藤島の戦いで宿敵・新田義貞を倒しています。
そんな猛将の嫡男が、家長です。
家長は戦よりも内政が得意だったようで(といっても17歳。戦の腕もこれから磨かれていくところだったのでは)、鎌倉府の将軍・足利義詮の執事となり、鎌倉で指揮をとっていました。
顕家軍の押さえとして関東をまかせられたからには、家長も1歩も引くことができず、最期は顕家軍の猛攻で落ちていく杉本城と運命を供にしました。
カリスマ・後醍醐天皇に、敵のひしめく東北の鎮圧の命をまかせられた北畠顕家と、
きっとカリスマ!足利尊氏に、ついこの前まで北条家の本拠地であった鎌倉をまかせられた斯波家長。
また、後醍醐天皇も足利尊氏も、自分の子供を顕家・家長に預けて任地へ向かわせており、2人とも絶大な信頼を置かれていることが分かります。
この若き総大将2人が激突したのが、杉本城なのです。
鎌倉最古の寺、杉本寺
杉本寺は734年、行基によって建立された鎌倉最古の寺です。
本堂は光明皇后の寄進で建てられ、本尊の十一面観音は国の重要文化財に指定されています。
天皇陛下や美智子様が行幸した際の写真も飾ってありました。
杉本城
観音堂や大悲殿の後ろを登ったあたりが、杉山城だったのでは。
朝夷奈切通からの侵攻を防ぐ目的でつくられたと考えられており、実際、北畠顕家さんたちも朝夷奈切通を通って杉本城を攻撃しています。
苔むす階段
奈良時代につくられたお寺ということで、本堂や門(仁王門)はもちろん、長い階段からも歴史を感じました。
苔に覆われ、現在は立ち入り禁止になっていますが、これだけ古いのだからきっと顕家さんや家長さんも見たに違いない!と階段に向かって拝んでおきました。
深く渋い苔の色が素敵です。
正直に言えば顕家さんや家長さんが歩いたかもしれない階段を歩きたかった・・・!
観音堂
こちらは写真撮影が禁止されていました。
観音堂内には、有名どころだと運慶の作品が4尊、運慶の子・快慶(宅阿弥)のものが1尊ありました。
運慶の作品は、既に杉本寺の仁王門で金剛力士像を見ていたのですが、猛々しい金剛力士像とは対称的に、繊細な美麗さがあり、個人的にはこちらの方が迫力を感じました。
本堂の中には、「柵もないのにこんなに近くで見ていいの⁉︎」と仏像の知識がない私でも躊躇ってしまうような立派で崇高な仏像がいくつも惜しみなく安置されていました。
その置き方が全く仰々しくなく、「飾る」というより、「居心地がいいから座っているだけ」とでも思ってしまうような自然な形でした。
また、最奥には国の重要文化財である十一面観音(行基作)が御簾の向こうでほんのりとライトアップされており、気配を感じることができます。
(恥ずかしながら、行基も仏師であったことを杉本寺で初めて知りました。)
古い=すごい、というものではないと思いますが、影やシルエットからも神々しさを感じ、本当に何か荘厳な存在と対峙しているような気持ちになりました。
五輪塔
五輪塔とは中世のお墓のことです。
杉本寺の一角に、子供ほどの大きさの五輪塔が1つと、小さな五輪塔が30ほど肩を寄せ合うように並んでいました。
中世ではお墓として使われていたとはいえ、杉本城の戦いは分かっていないことも多いし供養塔として置いてあるのかな?と思っていましたが、お寺の方に聞くと「お骨も一緒に埋めてあります」とのことでした。
その割には乱雑だなあと思い再度尋ねてみると(何度も質問してしまいすみませんでした💦)、お墓は元々境内のあちこちに置かれていたようですが、崖近くに置かれたものが多かったため関東大震災で崩れ、一か所に集めたとか。そのまま現在まで同じ場所にあるそうです。
「その時にお骨も一緒に移動したそうです」とおっしゃっていたので、斯波家長さんのものもあるのかもしれません。
それらの五輪塔を見ていると、本当に17歳の少年が負けた戦の責任をとって自害したのだと実感して言葉が出ませんでした。
人が少なかったせいか供養塔の周りだけ静まりかえっており、まるで敗戦後の気配が残っているようでした。家長さんや家長さんと共に亡くなった人々の息づかいが聞こえてくるようで、写真を撮るのは控えました。
最近足利義満について調べているので、
「家長さんの弟(斯波義将)は、足利義満の元でこき使われながらも頑張っています。家長さんと同じ、穏健で内政が得意な方です。
忍耐強くコツコツ努力する斯波家にいつも勇気づけられてます!」
と手を合わせました。(何の報告だ)
ちょっと悲しかったこと
杉本城の戦いは、マイナーだからでしょうか、図書館やインターネットだけでは情報を集めることができませんでした。
杉本寺の境内にも看板は沢山あるのですが、杉本城の戦いに関する説明は全くなかったため、今回参拝者が少ないときにお寺の方に聞くことができたらいいなと思っていました。
有難いことに2人に尋ねることができたのですが、「昔戦いがあったらしい」以上の話を聞くことができず・・・💦
斯波家長という名前すら知らなかったため、少し悲しくなりました。
参考文献
・杉本寺パンフレット
・岩永文庫『太平記』