伊藤博文の休日【旧伊藤博文金沢別邸】
先日神奈川に行った際、朝夷奈切通の他に伊藤博文の別荘にも行ったので写真とともに紹介したいと思います。全部で3300文字ほどです。
⚠︎今回も相変わらず妄想多め。
最初に
(伊藤博文の呼び方の話なので読まなくてもいいです)
私は普段伊藤博文のことを俊輔(博文の前まで長く使っていた名)と呼んでいるので、以下俊輔と呼ばせていただきます。
博文も俊輔もどちらも高杉晋作さんが名付けたものなのですが、博文は使い始めたのが明治からということもあって、なんだか堅いというか、むず痒いというか・・・俊輔の方が等身大の伊藤さんって感じがして。
そしてもっと「この名前しかありえない!」というのが井上聞多(もんたorぶんた)です。
最近は"ぶんた"が主流のようですが、どちらの呼び方も躍動感ある感じが好きです。志道(しじ)聞多時代のやんちゃな感じも!
井上馨は雷親父からは程遠い大人しい雰囲気ですね。明治デビューにあたってイメージチェンジしたかったのかもしれない。
俊輔の別荘 基本情報
正式名称は旧伊藤博文金沢別邸です。
入館無料&撮影OK!良心的〜
パンフレットによると、
つまり大磯・葉山が別荘地になる前は、金沢に別荘を建てるのが主流だったようですね。
当時のものがそのまま残っているわけではなく、老朽化が激しかったため一部解体工事がされており、また現存しない部分は復元されていました。
ちなみに、
この名前を見ると、2人の真似をして金沢に作ったとしか思えない。
きっと俊輔は松方さんや西園寺さんとおしゃべりして騒ぎたかったんだろう。
そして仲良しの聞多にいつでも会えるよう、近くに別荘を建てたに違いない!(違う)
「おじゃまします」
それでは、さっそく俊輔が休日を過ごした別荘へ。
足を踏み入れるとき「本当に入っていいの⁉︎」と好きな芸能人の家に入るような気持ちになりました。
私は南北朝・室町時代も好きなんですが、明治と違って復元された建物をほとんど見たことがありません。
どうしても城跡や屋敷跡だけだったり、あったとしても石碑がぽつんと立ってあるだけだったり・・・。
(金閣寺などが復元できるなら、「足利尊氏引きこもりの間」とか「後醍醐天皇が万里小路藤房(秘書)に怒られまくってキレた部屋」「足利家の家臣が次の将軍を決めるためにくじ引きした屋敷」とかもいかがでしょうか)
こんな限りなくプライベートに近い空間に入れるなんて、近い時代だからできることですね。
とりあえず当時の玄関から入ります。
休日、手作りの大根漬け(聞多の得意料理)を差し入れに来た聞多の気持ちになって。
聞多「俊輔ー!いるー?」
俊輔「聞多じゃん。まあ入りなよ!」
俊輔は誰であってもにこにこしながら迎えてくれそうだ。(さすがに俊輔本人が出ることはなさそうですが)
俊輔「え、大根漬け持ってきてくれたの⁉︎🤩
やったー、すぐ保管しないと」
聞多「まあね、この前皇太子(後の大正天皇)にも褒められちゃったしね!」
とりあえず台所へ急ぐ俊輔。今日の晩御飯は漬物とお粥にしよう。
俊輔の息子・文吉によると、俊輔の1日のメニューは、
朝:梅干し、茶漬け
昼:職場
夜:お粥(←好物)
だったそうだ。・・・歯が弱かったのかな。
また、お粥の中でも妻・梅子のつくる粥を特に好んで食べたとか。
好物の豆腐を皿に持って一同に配ることもあったそうです。人好きな俊輔らしいエピソード。
お次は居間。
客間としても使われ、天皇や皇太子、皇族の来邸もあったそう。写真には写っていませんがひな人形も飾られていました。
食器用意されていたし、漬け大根きっと食べるならここだな!!
聞多「俊輔、他にも何か作ってやろうか?吸い物とか・・・」
俊輔「あっ、それは大丈夫!!」
聞多の作る料理は漬け大根以外はまずかったそうです。
今は駅から歩いて来れるけど、俊輔は目の前の海まで船で来邸していたそう。そのため目印に外に灯籠を並べており、上の写真には3つほど移っています。
居間を通り抜けると、寝室。
俊輔は奥の「夕照の間」に寝ていたそうです。
面白いのが、この夕照の間に絵画が飾ってあるんですが・・・
画質が悪いせいで、手前のホワイトアッダー号しかちゃんと見えないのですが、よく見ると奥にペガサス号も描かれています。
この2つの船、俊輔とどう関わりがあるのかというと・・・
幕末、俊輔たち長州藩士5人が、イギリスに密航したときの船です!
「長州ファイブ」なんて言われているので、5人一緒に行動したと思われがちですが、2つのグループに別れて行動しており、俊輔と聞多はペガサス号に乗っていました。
イギリス密航から38年が経った1901年、イギリスのバーミング大学で俊輔が講義を行った際、大学の教授からいただいたそうです。
さらに、その絵の左側には日本語でなにやら長々と書かれていました。
俊輔が密航の思い出を秘書の伊東巳代治に書かせたものだそうです。一部抜粋します。
これ・・・この絵にわざわざ書きこまなくてもいいんじゃない?
どうしても伝えたかったのかな・・・。
(確か映画「長州ファイブ」では、俊輔が腰に縄を巻いて船縁に行き、その縄の先を聞多が船の中央で持って支える、というシーンがあったので、この絵画から取ったエピソードだったのかもしれません)
少なくとも寝室に飾るくらいだから、お気に入りの話だったのかもしれない。
そして聞多はこのエピソード付き絵画を見たのか、かなーり気になる。
寝室の先は、ついに最後!お風呂です。
お風呂だけ1907年にリフォームしたらしく、これは2代目です。
そして、ちょうどそのリフォーム中に俊輔はなぜか西園寺公望(当時の総理大臣)を家に招いたそうです。
もちろんお風呂は工事中なので、予め用意していた鉄砲風呂に公望さんを入れました。なぜ呼んだんだろう・・・。
先ほど松方正義さんを女好きだと説明しましたが、俊輔、西園寺公望も同じく女遊びが好きで3人はしょっちゅう芸妓の話で盛り上がっていました。今回も同じような話をしていたりして・・・違いますね。
現実的に考えれば日仏協約かハーグ密使事件の話をしていたのでは?と思いました。
ハーグ密使事件とは、オランダで開かれた平和会議に韓国が密使を送り、日本の保護国無効化を世界に訴えた事件です。
これにより首相・公望と韓国統監をしていた俊輔は事件の処理に追われることになっていきます。
「おじゃましました!」
帰りは中庭に面した廊下を通って帰ります。
廊下には若かりし俊輔の写真が並んでいました。
その中で1番興味を引かれたのが下の写真です。
説明がなかったのでいつのものか分かりませんが、おそらく後列の1番右が俊輔で、前列中央が桂小五郎さんですね。その他の人は分かりませんでした💦
俊輔のヘルメットみたいな帽子もポーズも、こんなに笑顔な理由もなんだか気になる1枚でした。
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