カニを食べに来た男女

「さゆりんごー」
「ふじもりんごー」
 20代後半にもなって、彼女とこんな呼び合いをするなんて思ってもいなかった。

 彼女の名前の”さゆり”と、彼女の好物りんごを合わせて、あだ名が”さゆりんご”らしい。付き合って一週間で、彼女に「さゆりんごって呼んでね!」なんて言われたら、断れるわけがない。それどころか、俺の名字の”藤森”から、「わたしはふじもりんごって呼ぶからね」と宣言されたら、俺だけあだ名を呼ばずないわけにはいかなかった。

「じゃあ、今ね。目的地着いたから」
「うん。なんだろう。ドキドキ」
 さゆりはやたら擬音を使う癖がある。さゆりの心情が簡単にわかるから、俺からしたらありがたい。怒ってる時は「プンプン」なんて言わない。それも把握ずみ。

 そんな、さゆりを自宅から俺の手で目隠ししながら、徒歩と電車で、今日の店に連れてきた。道中、やたら周りの視線が痛かったが、これもさゆりんごの要求なのだから仕方がない。本人はサプライズ好きと言っているが、目隠しをしながらサプライズをして! と言われたが、これは絶対サプライズではない。羞恥プレイの一種のはずだ。
 俺も頼まれたことは全力で答える質だから、やぶさかでない。

「じゃあ、今、目を開けて下さい! どうぞ!」
 そう言って、俺は勢いよく、手汗でベッタベタになっている手を、さゆりから外した。

「パチッ、おぉおおおおお、カニだー」
 涙を流した後くらい濡れた目元を気にもせず、さゆりは、目の前に広がる、カニの水槽にテンションがMAXになっていた。

「食べたいって、言ってたよねー」
「ゆってたー。うれしー」
 さゆりは目を輝かせながら、身を乗り出して水槽の中のカニを見ている。

 2人で店の入口で騒いでいると、店員に即され、予約していた席についた。
 席の真横にも浅い水槽があり、セルフサービスで食べたいカニを掴み捕りできるということで、人気らしい。

「もう今日は、刺身も、鍋も、焼きも、全部食べられるから!」
「全部?」
 さゆりは水槽に張り付いていた顔をこちらへ向けた。目をまんまるにしているところ、サプライズは成功だと確信した。
「そうだよ」
「えー、うれしー、さゆりんごいっぱい食べるの知ってたんだねー」
 さゆりは純粋に俺を褒めてくれたが、初めてのデートで、白飯8杯おかわりされたら、皿の面積のほうが広いフレンチのコースじゃ無理だと察した。気づかないほうがどうかしてる。

「しかも、ここは、なんか自分で食べたいカニを、水槽の中から選べるんだって」
「ほんとにー?」
「じゃあ、俺やるからさ! 俺がちょっとかっこいいところ見せるね!」
 サプライズの次は、俺のカッコいいところを見せてやろうと思った。カニを掴み捕りがカッコいいかは、怪しいところではあるが。

 そうは言ったものの、いざカニと対峙すると、ひるんだ。
 生きてるズワイガニを見ることなんてまずないし、それを鷲掴みしなければいけないなんて、セルフサービスといいながら、軽い罰ゲームだ。
 ハサミも怖いし、甲羅自体がトゲトゲしてて、素手で触れる気がしない。でも、さゆりの前で、今更引けなかった。

 重なってるカニ達の一番上の少し小さいカニを掴もうと、手を水槽にいれた。
 見た目そのままで、生気のない殻がうごめいていて、一瞬躊躇したが、ここまで来たら、掴まない他なかった。

 その時だ。

 俺が狙っていたカニの下にいたはずのカニが、はさみで俺の小指をガッツリ挟んだ。
「いったあああああ」
 思わず、叫んでしまった。勢いよく水槽から手を出しても、カニは俺の手にぶら下がっていた。
 はさみの挟む力とカニの重量が合わさって、より痛みが増した。
「いってー、離せ!いってーな」

 手を何度も振ると、カニは水槽に落ちていった。
 後ろを振り向くと、さゆりはさっきとは打って変わって冷めた表情で、「ふじもりんごダサりんご」と言ってきた。
 この期に及んでも、ふじもりんご、と言ってるだけ、本気で怒ってはいないのかなと思ったが。表情と発言の温度差がありすぎて、安心はできなかった。

「えー、だって......」
「そんな男だと思わなかった」
 どうやら、カニを簡単に鷲掴みできる男と思われていたらしい。
「いや、ごめん」
「カニぐらい簡単に掴んだらいいのに!」
「えー、だって、すっごいでかいはさみだったしさ」
「もういいからさ、別に、カニなんかどうでもいいから、とにかくじゃあ、剥いて?」
 さゆりの目に光がなかった。どこに焦点があっているか分からなかった。
 今からカニを食べる人間の目じゃない。むしろ、今から食べられるカニ側の目だ。

「え? カニを?」
「うん」
「生で?」
「生で」
 目同様、最低限の言葉しか発してくれなくなった。

 俺は席を離れて、店員に頼んで、カニをとってもらい、殻付きのカニを持って席に戻った。時間がたてば、戻るかなと思ったら、全く変化なし。俺が席を離れた時と姿勢も、目線も変わっていない気がした。もう、瞬きすらしていなかったんじゃないかとも思うくらいだ。

「はい」
「この剥き方じゃないんだけど」
「えっ? なんか今日厳しいな、せっかくのデートだと言うのに」
 心の声が出てしまった。
 カニを剥いてさゆりに差し出しても、剥き方にいちゃもんを付けられて、受け取ってもらえなかった。
 殻を全部取っているのに、これ以外にどうすればいいと言うんだろう。

「じゃあ、ぴーっと線を入れて、パキッと向けばいいのかな?」
 俺のカニのむきかたのレパートリーなんて1つしかなかったから、確認した。
「ちがうー」
 さゆりは口をとがらせながら、顔をブンブンと横に振った。さゆりは、今どきの幼稚園児でもしないリアクションを平気でする。

「どゆこと? むくって?」
 だだっ子の求めているものが分からずに、俺はさゆりの顔を見つめた。
 すると、さゆりは物欲しそうな目で、俺の胸を見つめた。
 その瞬間に、俺はひらめいた。さゆりんごが求めている剥き方を......

「もしかして、さゆりんごが見たいのはこれかな?」
 個室でもない店内とはいえど、俺はやるしかなかった。
 急いで、Tシャツを脱いで、上裸になり、上半身に全力で力をいれて、筋肉を肥大させた。
「ムキムキー!」

「それーーー!」
 俺の予想通り、さゆりは生気を取り戻し、屈託のない笑顔で俺の大胸筋を指さした。


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