燻製と夫
私には、心から嫌なことがある。
それは、休日出勤だ。何が悲しくて、休みの日に仕事に行かなければならないのだろうか。手当が出ようが出まいが、私は休みの日には休みたい。
そうは言っても、勤め人。わがままは言えないので、調整がつかなければ、諦めて仕事に行くしかない。
そんな時は、仕事中にこっそりと食べるおやつのことを考える。コンビニでチョコレートでも買って、3時ごろに食べようかな。そんなことを考えると、心なしかテンションも上がって、休日出勤が楽しみになったりもする。
つい先日も、休日に仕事に出向いた。
底抜けに明るい晴天の日で、「なんでこんないい天気の日に仕事に行かないといけないんだよ」と心の中で思わず愚痴る。しかもその日は、夜8時過ぎまで仕事。心は曇天だったが、帰宅後のビールを飲むことだけを楽しみに、私は仕事へ向かった。
休みだった夫は、特にやることもないらしく、燻製を作ると言って食材を仕込んでいた。私が家を出る時、夫は庭で炭に火をつけたコンロを見つめながら、私に「いってらっしゃい。気をつけてね」と声をかけた。
☁️
私は、数年前のことを思い出した。
当時、私は、定期的に休日出勤をしていた。嫌だな、という気持ちはあったけれど、仕方のないことだとも思っていた。それに、習慣というのは怖いもので、それが当たり前になると、特に嫌だなという気持ちも薄れていく。
嫌だという気持ちが薄れていたのには、もう一つ理由があった。
私が休日出勤をすると、決まって必ず、夫が燻製を作って待っていてくれたのだ。
その時期はちょうどコロナ禍で、簡単に外出ができない時期だった。我が家の娯楽といえば、家でBBQをすること。BBQだけでは飽き足らず、燻製ができる段ボール箱を買って、燻製も楽しんでいた。
夫は料理をしない。けれど、BBQや燻製、釣った魚を捌いて刺身にはしてくれる。彼ができる料理で、私が喜ぶものが燻製だった。休日出勤の前の日に、私に何が食べたいかを夫は必ず質問した。そして、私が仕事をしている間、じっくりと食材を燻して夫は待ってくれていた。
私が仕事から帰ると、食卓には燻製のいい香りが充満していて、私は夫が作った燻製をアテに、ビールを飲むのが楽しみだった。
先日の休日出勤の間に夫が作っていたのは、私が大好きなスモークサーモン。大きなサーモンの切り身と珍しくスーパーに売っていた生のあん肝を、夫は自分のお小遣いで買っていた。サーモンはスモークに、あん肝はラップに巻いて茹でるんだと、楽しそうに話していた。
家に帰ると、チーズと、ポテトチップスもスモークして皿の上に並べてあった。
私はすぐに、スモークサーモンとチーズを口に放り込んだ。脂の乗ったサーモンとチーズが、口の中で絡み合う。鼻からぷんと燻製の香りが抜ける。私はキンキンに冷えた缶ビールのプルタブを起こすと、ぐびりとビールを煽った。
存在しない喉仏が動いたような気がして、なんだか気持ちがいい。
その勢いでポテチをつまむ。パリパリとした食感と、燻製のいい香り。ここでもビールをキュッと飲む。
「うん、うまい!」
そこで私は、首を傾げた。辺りを見渡せど、あん肝の姿がないのだ。私はあん肝がすごく好きなので、実のところ、スモークサーモンよりあん肝を楽しみに帰ってきた。物足りない食卓にしびれを切らした私は、夫に声をかけた。
「あん肝、うまくできた?」
「まだ食べてない」
予想外の返事が帰ってきた。
「まだ食べてないと?」
すでに夕食を終えていた夫が、あん肝を食べていないことに私は驚いた。夫もすごくあん肝が好きなので、いの一番に食べていると思ったのに。
「一緒に食べようと思って」
夫は台所に行くと、冷蔵庫に冷やしてあったあん肝を一口台にスライスし、皿に乗せて出してくれた。崩れてしまいそうなほどに、柔らかいあん肝。皿に並べられたこっくりとした桃色のあん肝にポン酢をかけ、ゆずごしょうを乗せた。私は産まれたての子鹿のような震えた箸先で、産まれたての赤子を抱くようにあん肝をそっと抱く。ゆっくりと口に運ぶと、あん肝はとろりと解け、あっという間になくなってしまった。ピリピリとしたゆずごしょうと、さっぱりとしたポン酢、こくのあるあん肝の旨みが、口いっぱいに広がった。
「成功やね! めちゃくちゃうまい!」
私は次のあん肝を慎重につまみながら、夫に感想を伝えた。まだ、あん肝を口にしていない夫は、満足そうに「柔らかすぎたな」と笑っていた。