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金木犀と村上春樹

金木犀がどこにあるのかを、私は探していた。

それは愛犬の散歩中に金木犀の香りが、ふわりと顔にまとわりついたからだ。朝晩の空気が冷たくなって、秋の訪れを感じていた時だった。

もう、金木犀の季節なのか、と胸が踊った。

私はリードを引っ張る犬を待たせ、周囲をぐるりと見渡した。しかし、どこにも金木犀の花は見当たらなかった。姿を現さないその匂いは、どこか夢の中で嗅いだ匂いのようでもあった。


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私が村上春樹の小説と出会ったのは、二十歳前後だったと思う。
四半世紀近く前のことになる。

当時、少しだけ憧れていた年上の男性は、本をよく読み、新聞を毎朝読む人だった。その頃の私が読むものと言えば、漫画本くらいで、ニュースを知るために見ていたのは報道番組だった。

憧れの人に、近づけたら。


私は新聞を読み、家の本棚を漁った。
本棚には「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」が並べられていた。母が好きな作家は、宮部みゆきや司馬遼太郎だったから、我が家の本棚には似合わない村上春樹に興味が湧いた。母に本の感想を尋ねてみたところ、父の友人に勧められたが、途中で挫折したと言われた。

私は、村上春樹の小説を手にし、ページをめくった。

それは、存外に面白く、私は夢中になった。
本の中の世界は私の夢の中のようで、言語化されたあの不可思議な世界観に、文字の表現の面白さを感じた。現実と非現実を行き来する物語。こんな小説もあるんだ、と感動したのを覚えている。

ノーベル賞の時期になると、村上春樹の話題になることが多いらしい。最近も村上春樹の小説について、みなが口々に意見を述べているのを見かけた。

私はハルキストではないので、全ての村上春樹の作品を読んではいない。新刊が出たと購入してみたり、読んだことのない作品を手に取ってみても、上下巻の上の途中で本を置いたこともある。性描写に関しては、気になる時もあれば気にならない時もある。これは、私の精神状態に左右されると感じている。村上春樹作品以外でも、私の場合、自分のコンディションで読めるものと読めないものが変わってくる。だから、作品の善し悪しを、私は語ることができない。

そういえば、私は一度読んだものを読み返すことがあまりない。四半世紀経った今、同じ作品を読んだ時に抱く感想は、きっと変わるだろうなと感じた。


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別の日も、同じ場所で金木犀の匂いを嗅いだ。

やはりどうしても、金木犀の場所が気になった。どこにあるのだろう。私はあたりを見まわした。そして、一本の背の高い木に目が止まった。背の高い木は、民家の奥で小さなオレンジ色の花を咲かせていた。

金木犀だった。

ここから匂っているんだ、とわかった。
なんだか少し、寂しくなった。

匂いのありかを探している時は、どこか非現実の中に紛れ込んだみたいで、楽しかったんだと気づいた。
見つけたかったような、見つけたくなかったような。
子どもの頃に目を輝かせて見ていた手品の種を知ってしまったような、そんな寂しさがあった。


金木犀は散った後、オレンジ色の絨毯になる。

大量に散った金木犀の細かな花びらを掃除するのは、とても大変らしい。





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