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エッセイにフィクションはアリなのか、について考えた11月26日。

仕事が終わると、私はコートを羽織り、駐輪場に停めていた自転車にまたがった。

鍵を開けて、少し前に自転車を転がす。すると、ずるずると音がするので、私はタイヤに視線をやった。潰れたタイヤを見て、思わず「パンク?」とひとりごちる。タイヤが少し潰れている。私の体重のせいだろうか。どうだろうか。最近は57キロをキープしているし、今年の初めより3キロほど減少している。タイヤが私の体重で潰れているとは、到底思えない。パンクでもなさそうだ。しかし、私がタイヤに空気を入れたのは、遠い昔のような気がする。それこそ、気の遠くなるような。これは空気が入ってないせいだなと思い、私は帰り道に自転車屋に寄ることにした。

初めて寄った自転車屋さんだったが、無料で空気入れを使えるサービスがあった。しかも自動で入るやつ。ありがたい。感謝しかない。私は空気をタイヤに入れながら、自転車屋に寄るのなんてめんどくさいなぁとしぼんでいた心にも空気を入れた。タイヤも心も張りが出て、私はぐんぐんと自転車を漕いで家路を急ぐ。

タイヤはぐるぐる回る。
私の頭の中もぐるぐると、思考が巡っている。

私が自転車を漕ぎながら考えていたのは、「エッセイにフィクションはアリなのか?」と言うことだった。きっかけは、秋谷りんこさんがリポストしていた記事を読んだことから始まる。

この記事を読んで、完全にフィクションで書かれているエッセイの存在を知り、私は驚いた。私の認識では、エッセイは「自分の経験に基づいて書かれたもの」だと認識していたので、それもアリなのか?と、本当にびっくりした。

同じタイミングで、蜂賀三月さんのポストを拝見した。エッセイには、ノンフィクション、セミフィクション、フィクションがあるとのこと。

なるほど〜と思いながら、自分のエッセイは完全なノンフィクションだろうかと疑問を持った。

基本的に全てを書いても問題がない時、私はノンフィクションのエッセイを書いている。しかし私は、個人情報や自分以外の人の情報を書くときは、別の内容に置き換えたりすることがある。事実とは少し色を変えている。と言うことは、もしかすると私が書いているものは、セミフィクションかもしれないと、思った。

それに、自分の考えたことなんかについては、若干、盛ったりもしてしまう。面白く書くと言うことを考えた時に、起きた事実はノンフィクションだけど、ちょっと演出をして表現すると言うこともある。

例えば、安納芋を食べておならをしたと書くとする。

私は、安納芋を食べて、おならをした。

これは、紛れもない事実。

それを私が盛ると、こうなる。

私は、黄金の安納芋を頬張った。ねっとりとした甘みが私の体内を駆け巡る。安納芋は私の食道を走り、胃へ到達し、さらには腸まで猛ダッシュで駆け抜けた。安納芋は私の体内を駆け巡る間に、気体となり、最終的には私の尻の穴から飛び出した。私の尻からは黄金の気体が漏れ、あたりには安納芋の香りが漂っている。

おならには色はついてないし、
安納芋の香りなんて漂っていない。

これは、フィクションだろうか。それとも、ノンフィクションだろうか。よくわからないが、盛っていることは事実だ。

盛ることはあるが、完全に事実でないことを書いたことはあっただろうかと考える。う〜ん?あるかなぁ?



あ、あった!



上記はフィクションのエッセイだ。

冒頭は実際にあった話だが、途中から完全な妄想だ。すごく楽しみながら書いたし、私的にはフィクションだけど、全然アリだと思っている。

他の方のエッセイで、フィクションで面白いものもあった気がする、と回想してみた。

上記のイトーダーキさんのエッセイ。

不条理シリーズと名付けられたエッセイだが、リアルとファンタジーが混在していて、すごく面白いと思った。最初は本当の話かなと思って読んでいて、途中から、これは、事実ではないなと気づいても、気になって最後まで読んでしまう感じ。騙された!嘘つかれた!なんて思うことはなく、めっちゃ好きー!と思った記憶がある。今、読み返しても面白い。

コニシ木の子さんのエッセイ。

もしかするとノンフィクションかもしれないけど、フィクションかもしれないと思わされてしまうのがコニシさんのエッセイの素晴らしいところだと思っている。なんのはなしかわからないけど、リアルとコニシさんの頭の中を行ったり来たりしている感じが、事実でも事実じゃなくても、面白いからなんでもいいやと思ってしまう。何度読んでも、よく分からないところが素晴らしい。


私は「エッセイのフィクション」と聞いて、「嘘を事実のように書く」という印象を受けたが、そうでないものもあるのかもしれない。

ただ個人的には、楽しませようというエンタメ的なフィクションエッセイは、アリかもと感じている。

自己を大きく見せたり、ネタで人を釣る内容だったり、誰かを傷つけるような、個人的によろしくないと感じてしまうフィクションのエッセイが存在するとすれば、私的にはナシかもしれないなぁと思った。

私はエッセイを、リアルなものとして読んでいる。

誰かの日常は、ノンフィクションでも、私にとっては十分、非日常だ。書いている人には普通の出来事であっても、私には十分面白い。もしかすると私は、書かれているネタの衝撃度より、その人の頭の中の想像力の衝撃度に、感動を覚えているのかもしれない。




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