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【適応障害休職日記】明日のこと

休職150日目

2月は私にとって節目になった日がたくさんある。
明日はその一つの日。

目の前が暗くなった日

前職のこと。
2022年2月1日から、私はリハビリ勤務を始めた。
最初は通勤訓練から。
職場に出勤して、8:30の定時から朝の送迎に同乗して、9:30で終わり。
そのままリワークに行く。
通勤訓練を始めて2週目のことだった。

そのころはまだまだコロナが未知のウイルスで、
完全隔離、保健所への届出や、濃厚接触者の1週間自宅待機があったころ。

2月8日 その日は前日から記録的な大雪で、出勤と同時に除雪に追われていた。
いつもの時間より遅くなりつつも、所長と一緒に送迎に向かった。

車内では「通勤訓練をしてどうか」「2週目になるけど、これからどう考えているか」
私には耳の痛い話が続いていた。

大雪の影響で、いつもは1ヶ所だけなのが、2ヶ所同時に送迎することになり、
私も利用者さんを誘導したり、バタバタした記憶が残っている。
9:30の定時は過ぎて、通勤訓練を終えてリワークに向かったのは10時半近かった。

そのときの私のメンタルは切れるギリギリだったのを、
「大変なときなんだから、私も頑張らなきゃ」と無理やり動かしていたのだと思う。

午前のプログラムが始まるギリギリにリワークに着いた。
みんなが「お疲れさま」「今日も頑張ったね」と言ってくれて、うれしかった。

その日の午前はアクションプランの作成だった。
いつも座る場所で、いつものようにアクションプランを書き始めた。

リワークに着いたころから軽く頭痛はしていた。
書いているうちに、チカチカと閃輝暗点がしてきて、やばいなとは思った。

その瞬間に目の前が真っ暗になった。

気づいたときには、メンバーさんやスタッフさんに囲まれて、床に転がっていた。
しばらくして「あ、私、倒れたんだ」と気づいた。

看護師や医療の仕事をしていたメンバーさんが、私の手を握って、
「いろどりさん、わかる?」と何度も聞いてきた。

多分スタッフコールをかけられたのだろう。
ものすごい人数の看護師さんやデイケアのスタッフさん、医師がリワークに来た。

その当時のデイケアセンター長(看護師)に、名前やどこにいるか、手を握ってとか、
意識の確認をされた。

頭を打っている可能性があったから、そのまま担架に乗せられて、
リワークから外来の救急処置室に運ばれた。

そのときもぼんやりはしていたが、倒れたことに怖くなって、
泣きながらスタッフSさん(今のセンター長)の袖を掴んでいた記憶がある。

Sさんは「大丈夫、大丈夫」とそばにいてくれた。

それからはモニターをつけられて、ルートをとられて(1回失敗されて手首にとられた)
CTを撮って…とされるがままだった。

CTには異常はなく、そのまま点滴室のベッドで休むことになった。
Sさんは「また様子見に来るからね。大丈夫だからね」と言ってくれた。

薬を入れられたわけではないが、安心したのか、疲れからか、
お昼までぐっすり寝てしまった。

お昼にSさんが来てくれた。
「嫌だろうと思ったけどお母さんに連絡させてもらったよ。ごめんね」と言われた。
その後、母からはとんでもなく理不尽なことを言われるのだがそれは省略…。

「頑張ったね。ちょっと頑張り過ぎちゃったね。疲れたね」
「リハビリ勤務のことは一旦置いておいて、今は少し休もう」と言ってくれた。

そのあとも帰りまで眠った。
ガヤガヤしているときもあったがそのときは気にならなかった。

帰りのころにまた不安になって泣いて、次はTさんが来てくれた。

「明日から、どうしたらいい?所長に何て言ったらいい?」と聞いた。

そのタイミングで主治医が来て「今は行けないでしょ」と言われた。

Tさんにも「明日は休みましょう。所長にはあったことをそのまま伝えよう。それをどう受け取るかは所長の判断だから、いろどりさんはどうにもできないよ」と言われた。

その当時の私は相手の受け取り方は相手次第で、自分が変えられるものではないと
ちゃんと理解できていなかったから、「そんなの無理」と泣いて訴えた。

もちろんTさんはブレずに「言うか言わないかはいろどりさんの選択だよ。けど、所長には安全配慮の義務があるから、いろどりさんを安全に働かせられないと思ったら、
ストップをかけるのは所長の責任だから仕方ないよ」と言った。

それからもぐずぐず泣きながら、Tさんに見送ってもらって、家に帰った。

ものすごく気が重かったが所長に電話をかけようと思い、
ケータイを見ると、逆に所長からの着信履歴が残っていた。

電話をかけるといつもは戯けたことも言う所長が、深妙な声色で出た。

利用者さんのコロナ感染が判明して、その利用者さんが私が朝に所長と送迎した人で、
他にも発熱者が出ており、私も濃厚接触者になるとのことだった。

コロナ感染の対応で頭がいっぱいだったのか、
私が倒れたことは「え、そうなの」で終わった。

意図せず、翌日だけでなく1週間の自宅待機になってしまい、
その間も落ち着かなくなり何度かリワークに電話をしてどうにか乗り切った。

自宅待機明けにSさんと面談し、リハビリ勤務は一度再開したがまた体調を崩し、
最終的にはドクターストップから退職の決断をすることになった。


あのとき倒れていなければと思うことはある。
もう少し頑張れていたら、今も好きな職場で働けていただろうかと考えることもある。

大好きな職場にも近づくことができなくなった。

ごめんなさいでいっぱいで、大好きだった気持ちを押し込めていた。

けど、リワークやカウンセリングで振り返ってきて、
「私はあのときできる最大限のことをしていた。倒れるまで頑張った。結果的に休職満了になり退職となったが、私は最後まで好きな仕事を続けたいと考えて行動していた」

こう考えられるようになるまで3年かかった。

あのとき倒れたから、今の私がある。
また大好きな職場に行くことができるようになった。
ごめんなさいだけでなく、ありがとうと思えるようになった。

これからも2月8日のことは毎年思い出すと思う。
ごめんなさいと思う日になる。

けど、ありがとうと思えるようになったから。
大好きな職場にまた行けるようになったから。

いつか、私が頑張った日と思える日になるといいなと思う。

できることを、一歩ずつ。
大丈夫、大丈夫だね。

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