疲れすぎると起きること
先日の坐禅会にご参加くださった方が、坐禅のあとの茶話会でこんなことをおっしゃっていました。
「家で横になってごろごろしてる家族を見るとイラっとしちゃうんです。自分ばかり働いているような気がして。でも、自分も横になって休もうとすると時間を無駄にしている感じがしてきて休めないんです。もっとがんばらなきゃって思うし、自分はがんばれているかどうかもわからない。」
止まれない
とても共感できるお話でした。がんばれているかどうかもわからない、それはすでに相当がんばってこられた方のお気持ちだと思います。動きを止めたらダメな自分になってしまうような気がして、休むこともできず、とてもお辛い日常だったことと拝察いたしました。有益なことをしなければ、役に立たなければ、立派な自分で在らなけらば、誰かが働かなければ現場がまわらないという焦燥感もあったことと思います。そして止まれなくなってしまいます。
見えない
そして、身心ともに相当疲れているのに、疲れているのかどうかも分からなくなってきて、ついには調子を崩してしまうことがあります。(私もそうでした。)家族との距離、仕事との距離、自分の思考との距離、日常との距離、いろんな距離が近づき過ぎてしまい、シンプルな現状が見えなくなってしまいます。近くて見えない、老眼といっしょですね・・・。
不足感
そんな頑張り屋さんの心の奥には不足感という大きな穴があります。何かで埋めたくなり、仕事で埋めてみたり、人のせいにして正義感で埋めてみたり、いろんな手段をつかって必死になります。でも、そんなことで穴は埋まるのでしょうか?
知足
本当に満たされた感覚とは何でしょう?仏教のことばに「知足(ちそく)」というものがありますが、とても有名ですね。少量で満足する、ほどほどにする、という一般的な意味もありますが、仏教的には「すべて捨て去ったところに立ち現れてくる慈悲」という意味があります。
止まれない、人を責めたい、がんばらなきゃ、そんな思いを一旦まるごと放棄してみると、それでも大丈夫な自分に気づきます。休んでもダメ人間になんかなりません。だってあなたはこの世にたった一人の大切な人ですから!がんばるのをやめてみると、とても平和な景色がゆっくりと流れているのが見えてきます。それが慈悲。仏さまのやさしいまなざしが、常にそこにあったことに気づくでしょう。
もうすでに慈悲の中に在り、十分満たされている自分であることを知ること。それが知足です。
日常から離れる
でもなかなかそう思えないのが人間のサガ。そんな時はどうぞお寺にお越しください。日常から離れて、究極の捨である坐禅を体験してみてください。坐禅は一時停止に似ています。日常の作業を一旦止めて、ただただ座る。座るために座る。ただ息をしているだけの自分を何度もやっているうちに、余計な力が取れて、これでいいんだと思えてきます。思考を思考でコントロールするのではなく、とにかく一旦止まる。5分でも10分でも、一旦全部止まる。実は休養が人を強靭にするのです。
私たちの目は距離をおかないと見えなくなるようにできているのですね。仏さまは今日もジタバタする私たちを「よし、よし。」と見ているんだろうなぁ~!1日1坐禅、してみましょう(^-^)
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