見出し画像

『偽る人』(揺れる) (第81話)

施設での日々 4(2)

 平日なので、卓雄はいない。久美が送っていこうかと言ってくれたけれど、帰りは夜になってしまうし、久美だって子供達がいるので、迷惑はかけたくないので断った。
来る時は、卓雄の車だったので楽だった。けれど、房子の荷物は結構あったので、支度
にも時間がかかった。その上、房子はまた買い物がしたい、という。それが大変なことになった。
 タクシーで駅まで行くのなら、まだ楽だった。けれど、房子は、乗り換えがない別の電車のルートがいいと言う。その駅まで行くのは遠いのでバスで行った。それがそもそも間違いだった。
バス停までも、バスを降りてからも恭子は、高さ一メートルもある房子の重たいキャリーバッグをひきずって、房子の手を取って歩いた。キャリーバックの中には、衣類と、絵手紙の道具などがいっぱいに詰まっている。
房子は途中で何度も苦しそうに止まった。スーパーに着くと、入り口に座り込んで動けなくなった。そこで、買うものをメモした紙を恭子に渡して、買ってきて、と言った。それなら、最初から恭子が買ってきたら、楽だったのに、と思いながら、恭子はひとりでスーパーに入っていった。
恭子だって疲れている。けれど房子は、自分のことばかりで、恭子がどんなに疲れているか、思い巡らせない。
メモの紙にはおかゆや佃煮、オレンジなどいろいろあったが、牛乳500ccを2パック、もあった。これ以上、どうやって持って行くのかと、うんざりしたけれど、施設の買い物の日は、まだまだ先なのかもしれない、と思って、仕方なく買った。
急いで戻ると、房子はまだ入り口に座っていた。キャリーバッグの隙間に、牛乳などの重い物を詰めて、残りは恭子の袋に詰め替えた。
それからやっとのこと駅にたどりついて電車に乗ると、恭子は疲れ切っていた。うとうとして、降りる駅のひとつ前で、房子に起こされた。
駅から施設までタクシーに乗って、ようやくほっとした。

施設に着くと、買ってきたものを急いで冷蔵庫やそれぞれの場所にしまっていった。もう、夕飯の時間が迫っていた。
帰る時、恭子を見送りに入り口まで来た房子を見つけて、ケアマネの野口さんが笑顔でそばにやってきた。
「おいしい物をたくさん食べてきた~?」
野口さんが、茶目っ気たっぷりに房子の顔を覗き込んで、言った。
 その時の房子の反応に、恭子は心底がっかりした。房子はうなづきもせず、曖昧な表情で、いつものように作り笑いを浮かべているだけなのだ。
 どうして、「ええ、たくさん食べてきました」とか、「よくしてもらってきた」とか言ってくれないんだろう・・。
 通りがかった仲間のおばあさんが、
「足はどう?」
と訊くと、房子はやっぱり、
「トゲがささっていたので抜いてもらって、楽になったの」
と、上品な言い方で言う。
「あら、なんだトゲだったの・・」
おばあさんが、拍子抜けしたように言った。

 施設からの帰り道、恭子はバス停までの暗い道を歩きながら、泣きたい思いだった。みじめだった。房子を喜ばせようと、必死にもてなしたこの日々は、何だったのだろう。
 辺鄙な所だから、バスは頻繁には来ない。タクシーも来ないので、バス停を過ぎて歩き始めると、少ししてバスが通り過ぎていった。
 体は鉛のように重い。手術した両足が、長く歩くとまだ痛んだ。
 歩きながら、涙がポロポロ出た。悲しくて、悔しかった。既に帰っていた卓雄は、メールで迎えに行こうかと言ってくれた。けれど、そんな迷惑をかけたくなかった。

 電車に乗ってからも、房子のことをずっと考えていた。野口さんに向けた、房子の曖昧な作り笑いが頭から離れない。
 尽くすことなら、いくらでもできる。ただ、喜んでくれさえすれば・・・。過去の房子とのいざこざも、そんな悔しさが原因のことばかりだった。情のない、ひどい人だった。話しても、通じない人だった。そうして、ストレスをためて、爆発した・・・。
房子が、
「あ~、ゆっくりできた!」とか、「おいしいものを思う存分食べた~!」と喜んでくれたら、それだけで恭子の気持ちは充たされたのに・・。
 そして、思った。
 房子は他人に、娘が優しくしてくれるなんて、間違っても言えないのだ。自分は娘に辛く当たられ、施設に追い出された可哀そうな人、ということになっているから。
 いや、以前もそうだったように、恭子の行為はすべて当たり前であり、優しくしてくれるなんて思ってもいないのだろうか。久美や他人には、優しいお礼の言葉を連発するのに。

 帰ってから、恭子の話を聞いて、卓雄が
「実の親なのに、自分のことばかり。恭子に愛情がないんだよ」
と怒った。恭子がかわいそうだ、と言ってくれた。
 久美と亜美にもメールで報告すると、やっぱり怒って、同情してくれた。
 亜美は、どんなに恭子が尽くしても、房子のあの感じは変わらないのに、優しすぎる、と言った。
 久美も優しい言葉をかけてくれたけれど、房子の久美にかける優しい表情を見ている彼女には、それほど強い怒りの気持ちがないのが分かった。


 それから何日か経った日曜日に、房子と何度も行った施設に近いスパゲティのお店で、房子の誕生日会を開いた。
 子供達と孫達、十八人全員が都合をつけて集まった。店の大きな部屋は予約していた。
 アレンジメントを頼んで、和菓子のお店で房子が好きそうなお菓子の詰め合わせも用意して、持っていった。
 房子は九十五歳になる。誕生日を祝うのも、これが最後になるかもしれない、と恭子は毎年のように思った。その日は誕生日の少し前だったし、房子にはただ、お昼にスパゲティを食べよう、としか言っていなかった。
 そうして全員がスタンバイして、昼頃房子を施設に迎えに行った。サプライズでびっくりさせるはずだった。けれど、レストランに到着して、みんなの顔を見ても、房子はそれほど驚いた顔はしていなかった。
 その日は、房子は食事中、詰まらせることもなかった。ケーキは食べきれず、施設に持ち帰った。
 家族がみんな房子のために都合をつけて集まって、良い会ができたと、恭子は満足だった。

画像1

登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

↓↓連載小説のプロローグはこちら↓↓

↓↓連載小説の1話目はこちら↓↓


いいなと思ったら応援しよう!