「わたしは仕事ができない」と自覚したい:仕事人としての段階(1/6)【さらば、noteを書く理由(8)】
今回の話の前段はこちら。
お金や地位より欲しいもの
前回までは、わたしの「文書きとしての段階」について書きましたが、今回からのテーマは「仕事人としての段階」です。
以前にも何度か書きましたが、わたしが勤め人として働く理由は、
です。
そしてそのための仕事のスタンスとしては、
みたいな感じだと書きました。
こんなわたしが仕事に求めるのは、年収アップでも出世でもありません。
や、もちろん収入は多いにこしたことはないですが、富裕層の生活みたいなものには全く興味がないです。
また、少なくとも「偉くなりたい」という意味での肩書きにも、まるでこだわりがありません。わたしにも一応役職は付いているのですが、「社長」とか「部長」とか「課長」みたいなものはただの「役割」で、「ひととしての価値とは無関係」だと思っています(ただし残念ながら、わりと勘違いした振る舞いをするひとが周囲を見渡すとそれなりにいます)。
でも、上に書いたような背景から、欲しいものはあります。
それは「実力と経験」です。
仕事ができる人間でありたい
お金や地位にさほど関心のないわたしですが、就職したときから「仕事ができる人間でありたい」とはずっと思っています。
おそらくですが、「高い年収が欲しい」とか「偉くなりたい」とか思うひとというのは、おしなべて「他人と比較する」志向が強いのだと思います。
例えば年収一千万が「高い年収」たり得るのは、日本の平均年収が400万ちょっとだからです。
また、出世が「偉い」という概念に繋がりやすいのは、誰もが出世できるわけではないからです。
どちらも、「他人より自分が優れている」という実感を得やすい、解りやすい指標なのだと思います。
ですが言うまでもなく、それは勘違いです。
年収の高さや社会的地位の高さは、それ自体で人間としての価値を保証してくれません。
年収や社会的地位の高いひとの中には、もちろんひととして素晴らしい方もたくさんいるでしょう。しかしそれは、年収や社会的地位の高くないひとの中に、ひととして素晴らしい方がいるということとなんら変わりありません。
ただ、人間が他者との比較によって自分を知ることができる社会的な動物だということは否定できません。だからわたしも全く他人を意識しないと言えば嘘になるのですが、「他人と比べてよかった!」と心から思えたことはたぶん一度もありません。
だからか、わたしが十代のころからずっと意識的な比較対象として見続けてきたものは、いつも自分でした。正しくは「その時点よりも若いころの自分」です。
例えばわたしは十代後半の自分を総合的には"ろくでもない子ども"だと思っているのですが、なにかをするときの熱の強さ、物事に対する好奇心、仲間を大切だとおおっぴらに言ってのける素直さ、「今の自分や仲間が見て、失望するような大人には絶対なりたくない」と本気で思う純粋さなんかは、今のわたしが「見習うべきだ」と思います(自分が自分を「見習う」というのも妙ですが)。
なので振り返ったとき、
「過去の自分より、今のわたしは少しでもまともな人間になれてるか?」
をいつも気にしています。
また当時の自分が今の自分を見て、
「まあ、そこそこちゃんとやってんじゃない?」
と及第点をくれるような自分でいたいと考えています。
だからお金や地位にはさほどこだわりませんが、「仕事ができる人間でありたい」とは強く思うのです。
そんな考えから「実力と経験」が欲しい……という話に繋がるのですが、次回はこの辺りをもう少し掘り下げて語りたいと思います。
というわけで、お読みいただきありがとうございます。
さらばでした!
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