怒る・叱る文化って必要?
住宅の建設現場で物凄い怒鳴り声が聞こえた。怒声を受けている作業員が理解していないのか、繰り返し怒られていた。
もし自分だったらその場からすぐに逃げ出していると思います。何故なら動揺してミス連発に繋がるし、仕事を終えた後もずっと嫌悪感に苛まれてずっと負のエネルギーを消費し続けなければいけないから。
仕事をする上で怒る・叱る行為は本当に必要でしょうか?文化として根付いて当たり前に考えているけど「精神的コスト」の無駄遣いでは?考えてみましょう。
「怒る」という宗教
普通に生きてきた人なら家庭や学校生活の中で「叱られないために行動すること」を学ばされます。勉強もプライベートも自分のために何かするのではなく、誰かに叱られないためにいつも注意しなければいけません。
そういうのが嫌になって世捨て人になる場合もありますが、多くの場合は社会人になっても、結婚しても、育児をしても「誰かに何かを言われないため」に行動して生きていきます。
家庭内だけならコミュニティが小さいので将来への影響力は少ないかもしれませんが、義務教育という集団生活の影響力は絶大です。その中で「人間とは怒る立場と怒られる立場のどちらか」だと思い込まされます。
現代でも”連帯責任信仰”が厚いため「怒られないために如何にズルイことをするか」「他人に親切にするのは損」「人と違うことをしている奴は叩いても良い」「誰かのせいにすれば楽」思考になっていきます。
大人になっても小学校の規則を持ち出す人がたまにいますが、生涯に渡って影響力があると思うと”義務教育原理主義”はもっと危険視されるべきだと思います。
信頼関係があれば怒りは不要
この話をすると「秩序を保つためのルールを守るのは当たり前」「守れない人は責められて当然」という反論が返ってきます。
筆者にもそういう時代はありました。「間違ったことを正している自分」に優越感を覚えて、常に誰かのせいにすれば自分は常に正しいと思えるから。
でもある時、自分が頼られたり、自分が人を助ける必要がある場面がありました。誰かと戦って間違いを正すよりも、感謝される方が幸せを感じられることがわかりました。
敵対関係だった人までもが心を開いてくれたこともありました。地道に地道に「あなたは私に怒りを感じる必要はない」と心の中で念じ続けたのです。
「ルールを守らせよう」ではなく「この人のために協力しよう」という考え方に変われば怒りなんて必要ないんです。
この話をすると「宗教的で気持ち悪い」と言われます。筆者は無宗教ですが、こういう時に聖書から引用出来るキリスト教国が羨ましくなります。八百万の神を崇める日本人ですが、貧乏神ばかりが奉られているような気がします。
「脱接客」の世界へ
コロナが後押ししたこともあり、世界中で非接客・非接触ビジネスが研究されています。
多くのデリバリーアプリが進出したものの、今度は配達の質にクレームを付け始める人々が現れたので無人配達車が導入され始めました。大手宅配業者が重い腰を上げて導入した「置き配」もなかなか浸透しません。
まだ時間はかかるでしょうが、自動車が全て無人運転になるのもそう遠くないと思います。
「AIや機械化すると人間の温かみが薄れる」なんて老害染みた意見もありますが、サービスを提供する側は温かさ以上に人の冷酷さに嫌になってしまうのです。
高品質・均質な接客(かつ低賃金)の代償として精神的コストがかかることを無視し続けた結果、本来の仕事内容とは別の理由で離職する人が増えることになりました。
リスクを教える上で「怒られるという脅威」を植え付けるのは一つの方法かもしれません。一方であらゆる選択肢を狭め、簡単なことをとても難しく考える性格になり、固定観念に縛られていきます。
外国人と一緒に働いていた時、細かいルールで揉めている日本人を尻目に外国人たちは楽しく効率的に働いていました。同じ作業をしているのにルールを忠実に守っているはずの日本人の方が効率悪いのは何故なんでしょうね。
怒りが支配する世界ではあらゆる生産効率が下がると認識されるのは一体いつになるのだろうか。
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