同じ釜の飯が食えない
「同じ釜の飯を食う」という言葉があります。軍隊や学校、会社の様な共同体において、所属するひとりひとりが同じものを食べることで帰属意識が高まることを意味する表現です。
本来は帰属意識に基づいた表現ですが、一般的にはもう少しカジュアルに同僚や友人と一緒に食事を摂ることを表すように使われています。
僕は若いころに胃の摘出手術をしているため、食事量が人よりも極端に少なく、自分のペースで食事をする必要があります。当時はひとくちの咀嚼で何十回も良く嚙んでから飲み込むようにもしており、他の人と食事をする時には長い時間待たせてしまうほど、ゆっくりと食事を摂っていました。
そんな状況においては、どうしてもひとりで食事をすることが増えていきます。人と食事に行く度に人を待たせてしまわないか、気を遣うようになるのです。
そのため、「同じ釜の飯を食う」という文化にも参加することが難しくなりました。「同じ釜の飯を食えない」状態だったのです。
まだ食事量が増えていない頃は、食事のタイミングも交代でまわしていくシフト制の仕事を選ぶことで、人と食事をする機会を避けていました。
その後、正社員として社会復帰した頃には、どうしても上司や同僚とランチに行くことや飲み会に参加しなければいけないことも多く、無理をして体調を崩してしまうこともありました。
僕の様な事情のある人間にとって、「同じ釜の飯を食う」というのは少し窮屈な文化なのです。この旧来型の企業文化が何とか変わらないものか、社会に対して強い不満を抱いていました。
食事においてももっと多様な価値観を持ってもいいじゃないか、というわけです。
しかし、そんななか全世界にわたってコロナウイルスが蔓延し、人と食事をすることが突然制限されるようになります。外圧によって僕の悩みがあっという間に消えてなくなったのです。
「同じ釜の飯を食う」文化は一時的にすっかり終息し、おかげで自分のペースで食事をすることができるようになりました。
こういった現象もあり、そもそも「同じ釜の飯を食う」必要はあったのか、そういったことを社会全体でも考えることができるきっかけにはなったと思います。
当時の様にランチや飲み会をする必要が本当にあったのか、実は本音では参加したくない人が多かったのではないか、そんな色々な側面を見つめ直すきっかけにもなったと思います。
しかし、僕自身も最近になってやっぱり「同じ釜の飯を食う」必要はあるのではないかと考えるようになってきました。
手術から10年以上経過したことで食事量が増えたということも要因のひとつです。ですが、それ以上に仕事に対して前向きに取り組むことができているのが、大きな要因だと思います。
今までオンライン上でしか知ることのできなかった上司の考え方や社内の事情が、食事や飲み会の場で顔を突き合わせて話すことで見えてくるようになったのです。
また、仕事の将来を語るうえで上司・部下と一緒に串カツを食べながらビールを飲んだ時、現在の課題とともに数年後のビジョンを共有することができました。その日以降、部下が働くときの目の色はガラッと変わりました。
「同じ釜の飯を食う」文化のおかげで、全員がビジョンを共有することができれば強い組織になることは間違いありません。いくら仕組化を進めても歪みは生じるものですが、ひとりひとりに染みついた文化はなかなか変わることなく受け継がれていきます。
スタートアップ企業の社員たちが同じロゴのTシャツをお揃いで着るのと同じように、共通の課題に打ち込むためには仕組みではなく文化を醸成する必要があるのです。
要するに過去の僕は「同じ釜の飯を食う」ことが辛かったのではなく、同じ釜の飯を食いたい程の仕事に出会えていなかっただけなのでした。
何かできないことがあると、それを理由の中心において物事をネガティブに捉えてしまう傾向が働きますが、物事がうまく運べばその問題は大したことではなかったように思うことがあります。
もちろん「できないこと」に対して悩む気持ちは痛いほどわかりますが、それを理由に自分の将来をネガティブに捉えたくはないものです。