「追悼 奥野哲」神さまのおはなし(「山桜通信」52号)
学習院大学山岳部 昭和34年卒 田中和雄
奥野哲君とぼくは中学校、高校、大学、山岳部と同じ道を歩んだが、特に親しい友だちではなかった。いつも一緒にいるのでおたがい変なヤツという存在で、特に学習院大学山岳部でも一緒なのには驚いた。
だが入部したてのころに、一時間ほど交した会話が、鮮烈な記憶にのこっている。新宿の東口に名曲喫茶というのがあってクラシック好きの二人が入ると、ラフマニノフのピアノ協奏曲がかかっていた。パガニーニやストコウスキーなどの話に花が咲いたあと、奥野哲君が、このラフマニノフの音楽には神さまがいるという話をした。信仰の話ではなかったが、ぼくも神さまの話にはいささか興味があったので、ぼくはぼくの神体験の話をした。
高校を出て二年浪人して新宿の歌舞伎町界隈で悪い遊びをしていたとき、中学時代の友だちに誘われて南アルプスに山登りをした。甲斐駒の嶮しさにもうコリゴリと思ったが、仙丈岳の優しさに息を吹き返し、カールの残雪のすきまに咲く花畑を見たとき、目の眩む思いがした。これまでの人生で見たことのない美しい花々が色鮮やかに咲き乱れていて、思わず突っ伏して顔を近づけると涙がこぼれ声を潜ませ泣きじゃくった。花の名こそ知らなかったが、チングルマ、キンポウゲ、リンドウ、イワカガミなどが咲き乱れていたのだろう。まぎれもなくそれらの花々は、神そのものであった。
そのあとぼくは山登りをする大学を国立大から私大に替えて、四年間学習院大学山岳部で遊ばせてもらった。厳冬期の北穂単独行で雪崩にまきこまれ濁流を泳いで九死に一生を得たり、氷雪の一ノ倉沢の岸壁で死に神に誘われたりと山の神には何度遭遇したことか――。
奥野哲君が先に行ってしまったのは悲しいが、いまごろきっとラフマニノフを聴いてパガニーニやストコフスキーたちと楽しく遊んでいることだろう。彼のことだから新しい神々にも出会って瞑想に耽っているにちがいない。
ぼくも八十八歳と歳だけは立派にとった。ことしも春を過ぎて、八百屋の店頭には蕗のトウやワラビ、コゴミなどが顔を出した。山に行く元気はないが、洗って灰汁ぬきをしていると子どもの神さまが顔を出したりして一瞬山の気分になって楽しい。近くの公園に行くと山鳩やツグミ、トンビなどいたるところに生き物たちの息吹が聴こえる。自分も生き物の一つで、内臓やら血液リンパ液などが体中をめぐり、そこそこに小人のような神さまが走り回っているのがわかる。
神さまはそれだけでなく、昔の人今の人が創った詩や絵や彫刻のなかにも住んでいるようで、目をこらすとわらわらと表れてくるから不思議だ。
生身の奥野哲君はいなくなったが、ベートーベンやドビュッシーに聴きほれていると、人なつこい目をした神さまが奥野哲君のかっこうをして現れることがある。
何年かしてぼくも奥野哲君がいる国に遊びに行くのだと思うと、死ぬのが楽しみに思えてくる。
こんどは一時間といわず、何日も何日も、神さまの話をしよう。奥野哲君!
2023年3月14日逝去
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