口話

LINEがピコンとなって、待ち合わせのお店が送られてきた。いつも時間ギリギリに生きているわたしが珍しく５分前にお店の前に着いたもんだから、ドヤ顔で「お店の前で待ってるね」と返信したら「もう席に着いているよ」と返信がきた。なぁんだ。今日もスカした顔はできそうにない。

お店に入ると、父とそれから母の顔が見えた。時間より早く着いたのに、最後に到着するとなんだか遅刻したみたいな、ちょっと情けない気持ちになる。相手は家族で、しかも両親なんだから別にいいじゃないかと思うのだけれども、やっぱり申し訳なさそうな顔をしながら席に着いてみる。

すると

「オレがここで、ママがこっちで良いんだっけ？」

と父が尋ねてくれた。わたしは聴覚障害があって、右耳は全く音が聞こえず、左耳に補聴器をつけて生活している。だから、わたしの聴き取りが少しでも楽な席を……と考えてくれたのだろう。

「こっち（左）で聴いてるからね。まぁこれでいいよ」

と適当に返事をする。この日のテーブルは円卓で、時計回りに、父・母・わたしと並んで座った。３人で円になると、どう頑張っても誰かはわたしの聞こえない側に座ることになってしまうわけで。それはもう、仕方がない。

わたしの気のない返事に

「今まで尋ねたことがなかったけど、ママとパパ、どっちの声が聴き取りやすいんだ？」

とさらに質問を投げてくる。

そうねぇ。声の通りで言ったら、断然父の方がよく通る。でも、口の形を読み慣れているのは母の方。小さい頃から会話を重ねた回数が、圧倒的に違うんだから。

でも、ストレートにそんなことを言ってしまって良いものかと云々悩んでいると、母が

「この子は、聞くだけじゃなくて口話だから。聴き取りやすい声量で、はっきり口を動かしてあげれば良いのよ。」

と助け舟を出してくれた。

はて。うちの母は、いつの間に「口話」なんて言葉を覚えたんだろう。

「口話」：口の形を読み取ったり、聞こえてくる音や表情、話の流れから相手の話していることを察知して話をする方法のこと

PEPNet-Japan

わたしの難聴の発覚は6歳のときで、そのときはある程度の言葉も出ていた。だから、特別支援学校や療育に通わずに高校生になって、左耳の聴力がぐっと下がったときにはもう実家を出てしまっていた。そんなわけで、わたしの母【難聴児の育児】みたいなことを学ばずにここまできていて、当然手話は一単語も知らない。

家族の団欒の全てを聴き取ることは難しかったこと、特に屋外では。
手話を知って、複数人の会話をいっぺんに見れるようになったときの驚きや戸惑い……

オトナになって「あの時のわたしは、こんなことに困ってたの」とか「お友達とは、好きな人とは、こんなふうにコミュニケーションをとってるの」とかそんなことをやっと言語化することができるようになってきて、聞こえづらさによるすれ違いがちょっとずつ減ってきたこの10年ちょっと。

「手話を覚えてくれればいいのに……」と思ったこともあるけれど、年に数回会うときは静かで聴き取りやすい環境を選んでくれているし、とりあえず伝わり合うのであればなんでも良い。わたしも、この10年ちょっとでずいぶん丸くなったと思う。

要するに何が言いたいかというと、うちの母が「口話」なんて単語を知っててそれをここだというときに使ったということ。わたしとの会話の断片で覚えたのか、自分で聴覚障害について調べてくれたのか、それは分からないけれど、少なくともわたしが大学に入った10年ちょっと前には彼女の知らなかった単語だったもので。

親元を離れて暮らすようになってからも、わたしのきこえのこと、両親なりにいろいろと考えてくれてるんだなぁと思ったらなんだかくすぐったくなったり。実家を出て、そろそろ12年。