通訳は誰のために
この世界は、多い人に合わせて作られている。
たとえば、ここがスペインだったら。お店で出てくるメニューはスペイン語表記のものがほとんどで、日本語表記のものはあったとしても頼まないと出てこないだろう。
たとえば、ここが通勤電車だったら。電車に乗る人は大多数が大人で、吊り革は160cmくらいの高さにある。地下鉄通学をしていた小学生時代はなんとしてでも座るか握り棒を握りしめていた。
そしてこの日本は、キコエル日本語話者が大多数で。わたしたち聴覚障害者、もとい手話を使う人たちは圧倒的少数。
それじゃあどうしているのかというと、小さい頃から日本語を勉強して読み書きに不自由しない程度の日本語力を身につけて、補聴器機を使って音を聴く練習を繰り返して、手話ができる聴覚障害者は手話通訳の派遣をお願いする。
わたしは母語が日本語なので日本語の学習については人よりちょっと苦労(聞き間違えて覚えてしまった日本語を学習し直すみたいなことがメインだった)したくらいで、高校くらいまでは良聴耳の聴力が比較的良かったこともあって補聴器機はそれなりに使いこなせているし、大学でたっぷり手話の世界に浸ったので専門の分野を語ることのできる程度の手話力がある。
だから、書記日本語・音声・手話とありったけのコミュニケーションモードを必要なタイミングで使い分けられる選択肢をもっていることは、わたしにとって大きな強みなんだろうなとは、常々思う。
ただ、その選択肢を生活の中で使いこなしていくことは、そんなに簡単ではないのもまた事実で。
筆談をお願いするにしても相手に煩わしい思いをさせてしまうだろうし、補聴器機を使うにも静かな環境下かつ相手の声質によるところは大きいし、手話通訳はイベントの主催者から派遣申請をすると予算が必要になる。
どの選択肢を取るにしても、わたしが漏れなく情報を得るためには「わたしのために〇〇させてしまって申し訳ない」という気持ちがどうしても心のどこかに引っかかる。
ところがどっこい、先日衝撃的な動画を目にした。
これは、AppleのCEOのTim Cookがアメリカはギャローデッド大学(ろう者のための大学)で招待公演をしたときの動画。Tim Cookの横にいる女性は手話通訳。そしてなんと、この手話通訳は大学側が派遣したのではなく、Tim Cook自らがAppleの通訳チームを率いてこの場に登壇していた。
この場合の通訳というのは、英語→アメリカ手話への通訳のこと。彼が連れてきたということはつまり、この手話通訳者たちは、英語とアメリカ手話だけでなく、Tim Cookの語る専門的な知識を持ち合わせていることが考えられる。
りんごというひらがなが読めても、それが食べ物であり、果物であり、かじって食べられるような硬さであること、そしてりんごという手話単語を知っていないと通訳できないだろう。それと同じように、Tim Cookの講演を通訳するには、彼の話す専門的知識の背景を知っている必要がある。
だから彼は、聴覚障害者にお願いされたから通訳をつけるのではなく、聴覚障害者に自分の言葉を伝えるために必要な通訳を率いてこの場に登壇したのだろう。
わたしも、大学時代にたっぷり手話の世界に浸って専門知識で討論する機会を得たのだけれども、在籍する大学には当然キコエル先生や友達がいて、論文の発表会には手話通訳が派遣されていた。
そしてそこに通訳を派遣してもらうにあたり、わたしたちのコースはみんな原稿もPPT資料も読み上げ原稿も、他のコースよりほんのちょぴっと早く提出する。なぜなら、通訳の方に事前に専門用語を事前に確認してもらわないといけないから。
大学の研究発表となると、いくら学部レベルとはいえ、専門用語がグッと増える。普段の生活ではなかなか使わないような言葉もたくさんある。それらの言葉を事前に読んできてもらうことで、音声でのやり取りがより正確に通訳しやすくなる。
ここでやっぱりミソなのは、コース全員が原稿を早く出していたというところ。いくら同じコースに聴覚障害のある先生や同級生がいると言っても、キコエル学生たちのみんなが流暢に手話で話ができるわけではない。
自分の音声での発表を、手話を自分の言語とする先生や学生に理解してもらうために、彼らもまた手話通訳を必要としていた。
ここ最近、わたしがきこえにくくて困っているからという理由で手話通訳の派遣をお願いすることが多かったけれど、改めて通訳は音の世界と音のない世界の両方の人たちにとって互いの伝えたいことを伝え合うための架け橋なんだよなってことを思い出させてくれたきっかけになったこの動画。
音のない世界の人たちだけで抱え込まないで、周りも巻き込んで「こんなところで通訳が欲しいな」「こんな方法だったら互いに気持ちよくコミュニケーションできるね」とわたしとわたしの周りの人たちが、みんなで自分ごとにしていけるような雰囲気を作っていける人でいられたらいいな、なんて野望を抱いたり。