act:1-大多喜町役場とタダシくんのションベンタワー
昭和50年代、千葉県の大多喜町には『大多喜無敵探検隊』という秘密の組織が存在していた。
『大多喜無敵探検隊』は、自然豊かな房総の山あい大多喜町を舞台に、水曜スペシャル『川口ヒロシの探検隊(後の藤岡探検隊の元祖)』も真っ青な探検&冒険を日夜繰り広げていたのだ。
知らぬは親と大多喜小学校の先生だけであっただろう…。
我々メンバーは当時『鉄の掟』で結ばれていたので、これらの秘密は今まで一切外部に漏れることがなかった。
しかし私も既に50も半ば、そんな人生のターニングポイントとなったことで、世のため人のためにも、そして何よりこれから日本を背負う若者たちのためにも、あの頃の記憶を少しでも後世に伝えていかねばというその衝動のみで昨今ペンを取った次第だ。
まずは今回、第一回目ということで『役場の防災行政無線塔』の想い出からお話したい。
くれぐれも令和の良い子は真似しないように。
-------昭和50年代(西暦1970年代)-------
昭和50年代、1970年代の大多喜町役場は、近所の小学生にとっては恰好の遊び場スポットで、それはそれは日が暮れるまで、役場という施設全体を思う存分(勝手に)活かして私たちは遊びまわっていた。
実は当時の大多喜町役場の敷地内は、クヌギの木が何本も茂るちょっとした林があり、そこが絶好のカブトムシ&クワガタ捕獲スポットだったこともあって、いつしか私を含む近所の子供たちが巣食うようになったのだ。ごきぶりホイホイならぬ近所の小学生ホイホイ、それが昭和の大多喜町役場の実態だったのである。
その他にも当時の大多喜町役場は魅力がたくさんあった、例えば役場敷地内一角には斜面全体が熊笹に覆われた場所が存在し、これが小学生の背丈だと少し身を屈むだけで隠れられるのだ、まるでギリシャ神話クレタ島のラビリンス状態!そのうちミノタウルスのような得体の知れない化け物に遭遇するんじゃないかといった仄かな不安感や脅威を肌で感じられる誠に趣深い迷宮スポットだった(現在はツツジが植えられている)。
このように自然いっぱいの庁舎なので様々なバッタや蝶、蛾、トカゲや蛇などもよく出没する、そんな中、私はヤマカカ(※1)を見つけるたび何故か雄叫びを上げ「大蛇発見!殲滅すべし!!」などと叫んでは尻尾を捕まえ、ブンブンふり回して遠くへ放り投げてたりしていた。今思うと何で私はあんなにヤマカカを虐待していたのか不思議で仕方がないのだが…
そういえば庁舎内での隠れんぼもしょっちゅうだった。特に雨の日などは誰からともなく役場に1人、2人と集まり、あげくは最大5~6人の子供たちが庁舎内をフリーダムに駆け抜けて、さらに勝手に部屋や倉庫に隠れていくのだ。
ほんと当たり前な顔をして平気で役場内の廊下を歩きまわっていた、当時の我々は町長さんより権限があったのかもしれない(ないない)。
他にも施設内の消防小屋に停車している消防車に勝手に乗り込んでは、そのサイレンをガンガン回して緊急出動ごっこしたりしていたなぁ(※2)、令和の今の世なら我々「大多喜無敵探検隊」メンバー全員は補導され学校にチクられ親が呼び出され、まちがいなくコッ酷く怒られていることだろう。
まぁ今から50年近く前の昭和の田舎の話なんで…なにより当時は今と違い、人々も大らかだったんで許されてたんだと思う。また今になって振り返るとあの昭和の時代とは、自分の家の子供だけじゃなく他所の家の子供にも大人はとっても優しく、しかし怒るところは自分の家の子と同様にしっかり怒り諭してくれた時代、本当の意味で子供を大切にしてくれた時代だったように思う、子供は子供らしく、そして大人は大人らしく、まさに本来の人間らしくいられた時代だったんじゃないかなぁ‥
そんな大多喜町役場には防災行政無線塔(広報塔)いわゆる「チャイムの塔」もあり、これも無論絶好の遊び場だった。
このチャイムの塔は、普段は朝昼夕などの時間を知らせる時報や、子供たちに帰宅を促すアナウンスをはじめ、町内の緊急アナウンスなどをスピーカーで流していた塔だ。
目測25mといったところか、 当時は根性試しと称し、みんなでこのコンクリート製の塔の根元の扉を開けては、頂上まで続く塔内部の梯子をよくよじ登っていた。
この垂直に伸びる梯子には途中二か所の踊り場がある、その踊り場に登り、そしてあらためて下を見ると、高さと塔内の薄暗さ故にどうしても足が竦む、そこで恐怖心に負け梯子を降りて皆に腰抜け呼ばわりされるか、はたまたビビりながらも更なる高みを目指し登りきるのか、軽く男の面目がかかった二者択一の場であった、しかし何より男らしくカッコイイところを見せねばならないという謎の脅迫観念(※3)があるため、ここは何としても登りきるしかないのだ‥
そんな竦む我が心を急いて天辺を目指して登り切り、大きな拡声器が鎮座する最上階踊り場に着いて外を見渡すと、他の同級生は勿論、町民のほとんどがまず見たことがないであろう絶景が広がっているのだ。この普段は決して見ることがない町を一望できる景色を拝めることで、子供心にも大きな達成感、満足感が得られたのだ。
そうそう、調子に乗ってこの塔にその後も何度も登るようになってたんだけど、一度だけ15時の時報のタイミングに出くわしてしまい、コンクリート塔内に大音響で反響しまくるチャイムの音に驚き、皆一斉に脱出したことがあったなぁ。中には大音響から一刻も早く抜け出したかったのか梯子を下りるのがまどろっこしく途中から下まで3mぐらい(!)ジャンプして降りた子供もいた、今思えば怪我がなくて何よりだった。
しかしありゃートンでもない爆音と振動で、気をつけないと耳ばかりか脳までも破壊されそうな塩梅、正に音響兵器だったよな…。
そんな私たちの遊び場の一つだったこの「チャイムの塔」、ここでの一番の思い出は一歳年上だったタダシ君の奇行である、彼の謎めいた行為により、ここはこの先、私たちの中で永遠に封印されることになったんだ。
ある日のこと、彼はみんなを押しのけ誰よりも先に大きな拡声器がある最上部まで忍者のように、、いやいやあれはまるで猿だな、大多喜の山にいるニホンザルかと見紛うような素早さで一気に頂上の踊り場まで登り切った、後をすぐ追う私は何だかとっても嫌な予感がしたんだが、一同はそんなタダシくんに続き、ぐんぐん梯子を登っていく。タダシくんはそんな我々を頂上の踊り場から見下ろし軽くニヤリと微笑んだ、そう、タダシくんの次に登っていた私にはその彼の表情が見えたんだ、この時に気付けばまだみんなの不幸を防げたのかもしれない…、彼は次の瞬間まだ登りきってない我々に向け、何を思ったのか突然大笑いしながらションベンを撒き散らしたのだ!なんと無慈悲な…、もちろんみんなタダシくんのションベンシャワーを頭から喰らってしまった!
最初何が降ってきているのか分からなかったが、それがタダシくんのションベンだと気付いたあとはもうみんなパニック!この狭い塔内で絶望に満ちた悲鳴が随所であがり、みんな我先にと梯子を下り、そして蜘蛛の子を散らすように皆が逃げまどった、今思い出してもアリエネェ…
そうなんだ、今回だけじゃないんだ、タダシくんは前からトンだサイコ野郎なのだった、一緒に遊んでいるとついつい忘れがちだが、彼は時折サイコパスなことをする危険人物だということをうっかり忘れていた、常に注意をしなければならなかったのだ、あの時はホントに参った…
以降この塔は「タダシくんのションベンタワー」と呼ばれ忌み嫌われ、我々の中では永遠に封印されたのだった。これがチャイムの塔での最大にして、そして最後の思い出だ。
(現在は扉を開閉出来ないように釘でリアルに封印されている)
1977年(昭和52年)、小学5年生の頃の想い出である。
そして21世紀令和の現在、その大多喜町役場には、まるで「2001年宇宙の旅」モノリスのような妙にカッチョいい第二庁舎が建っている。
その新庁舎の脇には、凡そ半世紀ほど前に建てられた筈のこの「タダシくんのションベンタワー」が今も残されている、なんというか感慨深いなぁ‥。
【注意】
登場人物名及び組織・団体名称などは全てフィクションであり画像は全てイメージです…というご理解でお願いします。
大多喜町MAP 昭和50年代(1970年代)
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