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パニック障害 わたしなりの向き合い方
10年来のパニック障害について、「何か語ることがあるか」と訊かれたら「言うほどない」と答えちゃうかな。
でも、適応障害の記事を書いたので、折角なのでパニック障害についても書いてみたいと思う。
でも、正直、適応障害と一緒なんだよね。
適応障害は、会社のあれこれが重なって原因が明白だった。
ただ、それだけ。
初めて発作が出た時のことを、克明に覚えている。
うまくいかない就活。
大学内の会社説明会で、死にそうになったのだ。
あまりにもヤバいから、理由をつけて席を立って、保健室に行った。
ただ、当時は今よりからだのベースがしっかりしていたため、「体調が悪いのかな……?」と思っていた。
しかし、その後も、同様の体調不良が続く。
就活で移動したくないがそうせざるをえなかった(ここ、ポイント)電車の中とか、行きたくないが行かざるをえなかった(ここ、ポイント)飲み会とか。
「本当は嫌だけど、そうせざるをえない」状況下で発作は起き続け、発作と随分仲良くなってしまった。
ちなみに、医者は行ったものの、「問題なし」だった。内科だったかな。
正直、わたしの死にそうな不調は、いつだって「問題なし」で、抗不安剤的なものをもらって「気楽にしてね」で終わる。
さて。
わたしのからだに何が起こっているのだろうか。
まあ、既に答えは書いたけどね。
「本当は嫌だけど、そうせざるをえない」わたしを、自我の外のわたしが「発作を起こして止めにかかっている」のだ。
ベースに、わたしが非常に我慢強くって、学生時代のぼっち経験で我慢を使い切った、というのもある。
恥ずかしながら、発達障害やHSPっぽかったりして、「生きづらさのオンパレード」と名乗ったりしている。
あまりにも、ありのままの自分では生きづらく、自分を偽り、外の世界に合わせ続けてきた。
そして、我慢しきれなくなったのだ。
いわゆる、発達障害の二次障害的な部分もあるのかもしれない。
思考よりからだの方が正直だ。
からだが止めにかからなければ、わたしは、社会の歯車ロボットみたいに生きただろう。
頑張りすぎるわたしを止めるには、からだは究極の反応を使うしかなかった。
それが、"発作"や"恐怖"だ。
そこまで使わないと、わたしは社会の歯車ロボットをやめなかったのだ。
「なんでそこまでして?」と言われるのかもしれないが、そこはアダルトチルドレン的な素養もあったりして、まあまあ根深い。
我慢強く頑張り屋。
パニック障害を持っている人は、みんなそうじゃないかなあ。
美徳とされる部分もあるんだけど、度が過ぎちゃったんだよね。
では、これからわたしはどうするのか?
自分をごまかさず、本当にやりたいことにフォーカスして、本気で人生を考える。
ただ、それだけ。
楽しく生きていれば、エネルギーが満ちる。
そのエネルギーがあれば、少しくらい我慢できるし、少しくらい頑張って働くことができるだろう。
生まれてから長い間、こころとからだを奴隷のように酷使してきた。
そりゃあ、からだは反旗を翻すわけだ。
エネルギーがなくなり、五感が塞がり、何も分からなくなった。
だから、今は、充電をしている。
自分をやわらかい布団に包めて、楽しいことを与えて、おいしいものを食べて、そういうふんわりとした時間を送っている。
という、何かの参考になるのかよく分からない話をしてみた。
適応障害とかパニック障害の話をしているようで、わたしは"人生"の話をしているつもりだ。
なんちゃら障害に巡り合ったから、わたしは本気で"人生"を考え始めた。
わたしはどのように生まれてきて、何をして生きて、どのように死のうか。
世間に望まれる姿ではなく、わたしは何を選択しようか。
逆に言うと、なんちゃら障害と巡り合わなかったら、こういうことを"本気"で考えることはなかっただろう。
そして、病気でなくっても、こういうことを真面目に考えた方が、より良い人生を送れると思う。
だから、この記事で、別に病気だけの話をしているつもりはない。
そもそも、人生というものは、病気に終局するものではない。
思考がバグっているから、からだがそれを止めにかかって、それが病気になった。
だから、わたしはからだのケアをして、物事の判断を直感に委ねることを始めた。
思考は一定のレベルまで使うべきだが、それ以降は、「天を運に任せる」くらいでいい。
だって、生きるって、そういうことじゃん?
思考の計画通りにいったこと、ある?
ここまで書いたことは、ほぼわたしの直感で気づいたことだ。
直感とは、からだに訊くことだと思っている。
だから、自分の魂(ってあるのかな……?)の乗り物であるからだをケアしつくすこと。
これが、今のわたしの生きる道だ。