恩師最後の主日礼拝に行った話。
不思議なものですね、この日奏楽を務めたのは母でした。
古く祖父母の代からこの教会とはずっとご縁がありました。主宰は洗礼こそ受けていないものの、幼稚園児の頃から讃美歌を歌い聖書の言葉に耳を傾け毎週日曜の10時には教会の鐘の音をきいて育ちました。就職後、地方へ配属となってからも近くの伝道所に身を寄せては家族のように温かく迎え入れていただいたことで今日まで続く学びの日々があります。
関東の教会へ移られることを知ったのは昨年暮れのことでした。30年余りの月日はあっという間に過ぎ、その途中、お世話になった長老先生や家族との別れを何度も経験しました。今も、学び舎に程近い教会の墓地に顔を出しては先生方にご挨拶するのがある種のルーティーンになっています。何か今生の別れみたいに書き出してしまったのにも何か積み重なった思いがあって。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」
高校入試の面接試験で、好きな聖句は、と訊かれて答えた聖書の一節です。
試験監督を務めておられた先生とはその後、習熟度別の数学の授業で偶然顔を合わせることができました。なかなか面と向かっては感謝の気持ちを伝えられずその後どうしておられるかもわからない。苦しい時期の受験でした。どんなことにも感謝します、だなんて軽んじられる心理状態ではありませんでした。それでも前を向くしかなかった。目の前の出来事に必死だった。
幼少期から耳馴染みのある讃美歌を、高校の礼拝でも三部合唱できた幸せは一生の宝物だと思います。ひとたび大学へ進学してしまえば卒業式でも校歌や讃美歌を誦じることのできる学生はほんの一握り、基礎ゼミしか履修していなかった主宰は小さな学部の礼拝堂で卒業証書を受け取りました。なぜか誇らしかったですし、特別な存在でいられたような気持ちがしました。
「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」
主宰が初めて地元を離れ、流れ着いた伝道所できいたアモス書の一節です。
憧れの存在を思い門戸を開いたはずの7年間、果たして自分はどこまで近付くことができたのか。頭の四角い、社交辞令のヘタクソな主宰唯一の助け舟はお世話になった伝道所の牧師が以前、通っていた教会へ伝道礼拝にいらしていたこと。ありがとう良く来たね。「都会の人間は信用できない」「早く女を作れ」「関学卒でそのザマか」孤立していた赴任先で見つけた居場所。
とれたてのスイカをご馳走になり、教会員のおじさんと帰り道をご一緒してここのスーパーは安くて美味しいよ、ここの病院は親切な先生だよと導いて下さったこと。教会にはここにいても良いのだという安心感が常にあって、人のご縁にも恵まれた。これもきっと何かの節目であり、またこれから先の試練でもあって、どうにかこう書き残さなければという気持ちに苛まれた。
先生が最後に選んだ聖書箇所は、コリントの信徒への手紙10章でした。
これから夏にかけ、主宰の学び舎は無牧の期間を迎えます。残される教会の家族達へ向けた最後のメッセージには、自分中心に生きるのではなく神中心の生き方を選ぶこと、そうした生き方を示す模範的存在でありなさいという先生の願いがのせられていました。コロナ禍にもようやく出口が見え始め、マスク着用ながらも少しずつ短縮されていた礼拝が元の形に戻ってきた。
日曜学校時代の友人らとも、十数年ぶりに顔を合わせることができました。それぞれの暮らし、それぞれの毎日の中でたとえ物理的距離はあっても常に教会での学びが息づいていて。それがどこかで通じ合い、また交わり合っていたのだとわかった。思えば母の奏楽で礼拝に出席するのも随分と久々で。「おおきくなったねえ」といつも声を掛けてくれるそんな温かい場所です。