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読書メモ18 レジリエンスの時代ジェレミー・リフキン著 第13章

ローレッタ・ベンダーはニューヨーク市のベルヴュー病院の児童精神科病棟の責任者だった一九四一年、深刻な問題に気づいた。この病棟の子供たちが、極端なまでに人間嫌いであることがわかってきたのだ。」(p.368)

「心理学の先駆者の一人であるジョン・B・ワトソン一九二〇年代に、赤ん坊を甘やかすと自律や自立への欲求を損なう、と主張した。」(p.369)
ベルヴュー病院でも、幼児はしっかりと世話を受けていたにもかかわらず、大勢亡くなっており、生後二年間の死亡率が突出していた。小児科の責任者になったのがハリー・バクウィンだった。彼は職員たちが、『吸気弁と呼気弁、担当者が外から腕を差し込める袖・手袋』を備えた箱さえ考案し、中に乳児を入れ、『人間の手でほとんど触れずに世話が』できるようにしているのに気づいた。
バクウィンは、乳児が触れられたり愛撫されたりする機会を奪われていると推測した。人間的な愛情が不在だったのだ。彼は小児科の至る所に、次のような表示を掲げさせた。『育児室に入ったときには、必ず赤ん坊を抱き上げること』するとたちまち、感染率と死亡数が下がり、乳児たちは元気に育った。
その慣行が理論化されたのは、一九五〇年代後半にイギリスの心理学者ジョン・ボウルビィが子供の発達の新理論を説明したときだった。彼はそれを「愛着理論」と呼んだ。」(p.370)

このエピソードから、リフキンは「愛着と共感」を説き起こすのだが、ちょっと別の視点を取ってみる。

【自律と自由の育児】というワトソンの【観念】の呪縛力は、1920年から1950年(以降)まで、多数の死者を伴いながら、解ける事がない。
「正し」かろうと「間違っ」ていようと、「権威?ある」【観念】の拘束力は、【個人の生命時間】に対しては強大だ。
一方で、【生命史的時間】に対しては脆弱極まりない。

【観念】のアトラクター(誘引基底準位?)は深く、その誘引領域(ベイスン)は広く、隣接領域との境界は高くそそり立っている。
そのランドスケープ(景観)は、【理性】だけで変えたり、乗り越えたり出来るものではない。
         光


ともあれ、リフキンは「共感」を辿る。ロビン・ダンバーからゲーテまで、あるいは「自然学校」を引いて【生命愛(バイオフィリア)】意識の高まりを説く。

生命愛の意識の土台は何か?生命愛の普遍化は、人類の物語を自律性への執着から、関係性への愛着へと進める。ルネ・デカルトの『我思う、故に我あり』という有名な言葉は、すでに時代後れだ。水平な相互接続性に慣れた若い世代は、むしろ『我参加す、故に我あり』を座右の銘として好むようになっているからだ。相互作用する多数の主体が適応し合う新時代には、自律性の概念は関係性の原理に道を譲る。
イデオロギーの意識は自律性にきつく縛りつけられて、『人権』は自律性の指標となる。八〇億を超える主体的な人間が、自分の生き方を、何の束縛もなく自由に追求する。
だが、生物学的存在としての真髄において、私たちの誰一人として自律的な主体ではないとすれば、どうなのだろう?
生物学的に自律的な人間はただの一人もいない。胚の誕生から死までの一生で、深く巻き込まれることになる関係すべての統合体なのだ。自己の体験は他者との関係性の中にしかありえない。関係が豊かで多様で 没入型になればなるほど、私たちが『存在』と呼ぶものの中にいっそう深く埋め込まれるのは、自然の道理だ。
平等の純粋な表現は、単純な共感の行為によってもたらされる。他者が栄えようと苦闘しているのを、我が事のように深く感じると、緊密な人生の旅路での一体感〜が生まれる。
そのようなが生まれたときには、「我のものと汝のもの」はなくなり、「我と汝」だけになる。共感的な受容は、究極の政治的平等主義だ。あらゆる区別を放棄し、で結ばれた仲間だけが後に残る。
歴史を通しての共感の進化の特徴は、『他者』をしだいに減らし、『一人は全員のため、全員は一人のため』だけになることだ」(p.409)
E・O・ウィルソンが生命愛の意識という概念を紹介する二世紀も前に、ゲーテは、生命のない機械的な宇宙というニュートンの世界観に対抗する物語として生命愛の意識を提示した。
ゲーテは、『それ[自然]の創造物の一つひとつが独自の特質を持っており...すべて合わさって一つになっている』
『人類がいっしょになったものだけが真の人間であり、一個人は自分が一つのものの一部だと感じる勇気を持っているときにだけ喜びに満ちあふれて幸せでいられるという美しい感覚』と述べている」(p.413)

「私たちの共感の神経回路は、自己を超越し、人生を経験し、その経験を活かしてつながりを作り、周りの世界に適応するように、絶えず私たちを促している。神経回路に共感が存在していなければ、他者の生命の儚さや、栄えたいという欲求を感じ取れない。畏敬の念が理解できるようになるのは、そうしたものを感じ取る瞬間だ。畏敬の念がなければ、好奇心も湧かない。好奇心が湧かなければ、想像力も働かない。想像力がなければ、超越も経験できない。自己を超越する能力がなければ、他者と共感することができない。これが、私たちが自分の存在を知る拠り所となる、相互作用する壮大なアンサンブルだ。このアンサンブルは、直線的にではなく全体として経験される。畏敬の念や好奇心想像力超越のおかげで、各自が絶えず自分を超えて手を差し伸べ存在の意味を探し求める。
この資質が、私たち一人ひとりを人間たらしめている。共感的な衝動が育まれるほど、人生をいっそう徹底して経験し、生きることができる。最後に人生を振り返ったときに頭に浮かび、人生に意味与えてくれる鮮明な経験は、共感的な受容の瞬間だからだ。それは、私たちの個人的な意味の探究の指標となる」(p.415)
「『レジリエンスの時代』には、私たちは共感の拡張の次なる段階、人類を生命の家族の中に連れ戻す生命愛 の意識を目指す必要がある。のたうち回る地球の恐ろしい姿に対してさえ、畏敬の念を目覚めさせるために、私たちが子供を、彼らがそのまた子供を、どう育て、準備させるかということだ。一新された畏敬の念は、ぞっとするようなものではあっても、人を解放する可能性も秘めている。進化上の拡大家族とともに思いがけない形で栄えるように」(p.417)

進歩の時代」に自律、独立、分離に振れ、全ての主導者の如く振舞って来た人類が、共感と愛着に回帰出来るのだろうか?

東洋思想の観点から見れば、微笑ましい程愚かな西欧思想の顛末ではあるが、実態的には全く敵わなかった歴史の一巡ではある。

その先の世界を手繰り寄せるために、大きくもなく、小さくもない一人ひとりの力を、どの様に合わせて行く事が出来るのだろうか。
         光

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