読書メモ20「原爆裁判」第一章 死の商人 サンジェ
「『原爆・謎の男』と囁かれてきたエドガー・サンジェ、彼が時代生んだ注目すべき巨魁であることに間違いはない。
彼がウランと出会ったのは、原子爆弾が開発される二〇年以上も前のことだ。サンジェはアフリカのコンゴに責任者として派遣されたところだった。
ユニオン・ミニエールの鉱山があったコンゴは、当時ベルギーの植民地である。同社収益の中心をなすのは銅であった。サンジェは、銅の生産を任されていた。新しい鉱山で鉱物産出全体を見ていた彼は、その中で少々特異な動きに目を引かれた。
『コンゴのウランを発見したことは、私たちにとても興味深い驚きを与えてくれた』と一九二一年(大正一〇年)に、サンジェは語っている。
良質とされるアメリカ産、カナダ産でも〇・二~〇・三%の酸化ウランしか含まれないのに、コンゴの鉱石のウラン含有率はなんと六五%にも上るのだ。
しかし、この頃のウラン鉱石はほとんど活用されていなかった。商業的な価値が極めて低く、活用方法は考えられなかったのである。
『とはいえ、これほど純度の高いウランは他にない』
そのことに秘められた可能性をサンジェは切り捨てなかった。『もし、いつかこの鉱石の活用法が見つかれば、その新しい市場を独占できる』
彼は先行投資をすることに決めた。
しかしその後もウランの用途は見つからなかった。ユニオン・ミニエールのウラン鉱山は大量の在庫を抱え、一九三七年(昭和一二年)には一時閉山を余儀なくされる。
ところが翌年ドイツ人化学者がウランの核分裂反応を見つけ出した。ウラン235を濃縮すると、この反応を連鎖的に起こさせることが可能になり、天文学的な力を引き出せる。これにより、ウランの市場価値が一変する。
当時のドイツはナチスが急速に台頭していた。
サンジェの鉱山商人としての嗅覚と視野、周到なテクニックが、稀有な巨大ビジネスを引き寄せた。
サンジェはイギリスを訪れた。そこで『コンゴのウランを提供してほしい』という申し出を受けた。イギリスを代表する化学者ヘンリー・ティザードだった。
『ウランが敵の手に渡れば、あなたの国や私の国にとって大惨事になるかもしれない』
その数日後はフランスでノーベル賞 受賞者ジョリオ・キュリーから『ウランを爆弾の研究に使いたい』と売却を求められた。サンジェが保管してきた大量の在庫の価値を改めて確認させる動きだった。
彼は極めて質の高いコンゴの鉱石の戦略的重要性を確信するに至った。
一九三九年(昭和一四年)九月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。
一九四〇年五月にはオランダやベルギーへの侵攻を始める。
ベルギーのユニオン・ミニエールが接収され、本社に保管されていたウランの一部がドイツ軍に押収された。サンジェは驚くべき行動に出る。
『ウラン』という名前を伏せて、コンゴに在庫していたウラン一二〇〇トンを、会社に無断でアメリカに運び出したのだ。
この大胆な行為は、世界の歴史を大きく変える一ページとなった。
当時のドイツはすでに核分裂の発見によって 近い将来、原子爆弾を作り出す可能性を高めていた。
何よりも重大なことは、コンゴ産ウランの在庫をドイツ軍の手に渡さないことだった。
コンゴ産ウラン鉱石はニューヨークの中心から一〇キロほど離れたスタテン島に持ち込まれた。すでにアメリカでは、ドイツの核開発に対抗して、ウランの活用が本格的に検討されていた。
一九四一年(昭和一六年)一二月、日本の連合艦隊が真珠湾の米艦隊を攻撃しアメリカが第二次世界大戦に参戦した。
わずか数日後、サンジェはアメリカ国務省の戦略物資担当者に接触した。
一九四二年四月一四日まで、確認できるだけで五回の売り込みを、サンジェはかけていた。アメリカでは核開発に関する議論が始まり、続いていた。サンジェは販路の大きな可能性を見出し、疑わなかった。そこには冷静に利益を追求するビジネスマン・サンジェがいた。
サンジェという人物について、アメリカは入念に探っている。その結果、サンジェがフランス系であり、反ドイツ主義者であることが分かった。
売り込みから半年後、やっとアメリカ側からの働きかけがあった。一九四二年九月一八日、サンジェはアメリカ陸軍中佐ケネス・ニコルズと会談する。
『中佐、あなたがここに来た理由は分かっていますよ』
サンジェは覚えたての英語で語りかけた。『ビジネスの話をするためですよね?』
それから彼は、『我々はニューヨークのある場所に、二〇〇〇本のドラム缶を保管している。
その中身は大量のウランである』と伝えた。一時間後、ニコルズ中佐は、一枚の黄色い紙切れを持って、サンジェの事務所を去った。黄色い紙は二人が交わした即席の契約書だった。それには、サンジェがアメリカに持ち込んだ一二〇〇トンのウランに加え、まだコンゴに保管されていた残りの在庫ウランもすべてアメリカが買い取ることが記されていた。
サンジェは、取引が軍事目的であることにこだわり、軍事目的であることを保証させた。彼は常にビジネス価値を追求し、そのチャンスが大きくなることに喜びを見出していた。
彼のビジネスにとっては、ウランが軍事的に意義あることが重要であった。原子爆弾はその究極にあったが、その想像を絶する結果について、この死の商人にとっては、少しの疑問を抱くことも困難であったのではないだろうか。
いずれにせよ、かつてない高純度のウランを大量に手にしていたサンジェが、それをドイツではなくアメリカに手渡したことについて、他のシチュエーション(例えばイギリスやソ連)を想像することは難しい。
高純度なウランを独占することに成功したアメリカは、その後テネシー州に秘密都市オークリッジを建設、ここでウラン235の濃度を高める濃縮作業に着手する。
『コンゴ産ウランは欠かせなかった。すぐに入手できたので、そのまま一気に原子爆弾開発にかかれた。これがなければ計画はもっとずっと後れることになっただろう』
自分たちだけが原爆を手にすることができると、アメリカは確信した。そしてこの頃からアメリカは、核の力を独占することで戦後の世界を自ら主導しようとさえ考え始めていた。
軍事秘密に関わる物資の取引では、その難しさは増し、独特の性格を帯びてくる。それと同時に、ビジネスチャンスの大きさ、利益構造にも魅力的なものが絡まってくる。
一九四四年(昭和一九年)九月、サンジェの仲介により、アメリカとイギリスは、ベルギーの亡命政権との間に秘密協定を結ぶ。当時閉山していたコンゴのユニオン・ミニエールの鉱山を再開発し、その採掘する鉱石を、アメリカとイギリスが将来にわたって独占的に購入するという契約だった。
サンジェがアメリカに手渡したウランから二発の原子爆弾が生まれ、一九四五年(昭和二〇年)八月、広島と長崎の市民の頭上に投下された。広島では一四万人、長崎では七万人の命が一瞬のうちに無差別に奪われた。死者も生者も業火に身を焼かれ、子孫までもが死の苦しみに襲われ続ける。
アメリカは、ウランを制する者が核開発を制することに気づいた。戦後世界を見据え、その大きな流れを引き寄せようとしたとき、核使用の方法は大きく変わりつつあった。
第二次世界大戦が終局を迎えつつあったとき、彼らの標的と目されたのは、当時、徹底抗戦を続けていた日本だった。
原爆の投下は早期に戦争を終わらせるためだった、とアメリカは一貫して主張してきた。しかし歴史家は、核を独占した上でその威力を見せつけることこそ、アメリカにとって必須であったと指摘する。
『アメリカは原爆を日本に使用することで、国際秩序すべてが見直されると期待していた』
長崎に原爆が投下された八月九日、サンジェはホワイトハウスに招待されている。
『この方の協力がなければ、マンハッタン計画は実現しなかったでしょう』原爆開発の責任者、グローブス少将がサンジェを紹介する。
アメリカの名だたる政治家や将軍たちが彼のテーブルに近づき、原爆投下を祝福する。その翌年彼は、戦争終結に多大な貢献を
したとしてトルーマン大統領から、外国人としては初めて、アメリカ合衆国功労章を授与された。
戦時中、彼がウラン取引によって会社にもたらした収益は、当時のベルギーの国家予算を上回る膨大な額に及んだ。
唯一の核保有国となったアメリカは、その後も世界で核実験を繰り返し、力を誇示していった。
アメリカは完全な勝利を遂げてもなお、満足することなく、サンジェからコンゴ産ウランを買い続け、核実験を行ない続けて、原子爆弾をより重要視するようになっていく。原爆を独占していたからこそ、原爆を最も恐れたということか。
アメリカのウラン独占は、その後の世界を運命づけた。果たしてその重大性を、サンジェは自覚していただろうか。
ところが、アメリカの原爆独占は長くは続かなかった。独占が途切れるきっかけとなったのも、サンジェのウランだった。戦時中ドイツに奪われていたベルギーのウランの存在に強い関心を持っていた国があった。ソ連である。
ソ連は、アメリカの投下した原爆の脅威を肌で感じていた。ソ連はコンゴ産ウランがドイツ国内に隠されていることを突きとめている。ドイツが降伏した直後、北部ドイツの工場で1〇〇トンを超すウランを見つけ出す。ドイツから押収したウランは、連行されたドイツ人科学者が建設したソ連の原子炉に使われた。そして一九四六年 一二月二五日、原子炉内で核分裂が起き、臨界点に達した。
彼らが開発した核爆弾に使われたコンゴ産ウランは、ソ連の核開発を前進させるうえで非常に重要な役割を果たすことになった。
一九四九年(昭和二四年)八月二九日、ソ連は初の原爆実験に成功する。核による軍拡競争の口火が切られたのだ。その後、核をめぐる米ソ間の駆け引きが激しくなる中、サンジェはアメリカ政府の監視下での生活を余儀なくされることになった。FBIの尾行から彼が自由になるときはなかった。
サンジェは、アメリカからさらなる厳しい要求を突きつけられる。アメリカ政府は、増産を、これまで以上に強く求めてきた。要求というより命令であった。命令は直接、時の大統領トルーマンから伝えられた。
『アメリカは平和を愛する世界の人々の自由を守るべく、不可久な原料(ウラン)を入手するため一九四六年の頃よりもあなたの協力を必要としています』と。この要求に、サンジェは強い不満を抱くようになる。
『アメリカ側の要求は、私たちに重大な困難をもたらす。この条件では資源は想定よりも早く枯渇し、会社の長期的な利益に反することは明確である』
コンゴがベルギーから独立する一九六〇年まで、サンジェがアメリカとイギリスに売渡したウランは、大量の原爆を作り出せる量に上った。
ウランの取引で急成長を遂げたユニオン・ミニエールが
一九六〇年に公表した売り上げは、現在の価値に換算して年間二〇〇〇億円近くになる。ヨーロッパ有数の銀山会社に成長していたのだ。
その功績が認められ、サンジェは名誉会長にまで上りつめ、生涯に膨大な資産を築いている。
彼は一九六三年、八三歳でその生涯を閉じた。
サンジェは自らが核の扉を開いてしまったことをいったいどのように受け止めていたのか。
広島や長崎の甚大な被害について、サンジェは資料に書き残すことはなかった。もちろん、日本を訪れることもなかった。
サンジェの右腕としてウランの取引に関わったジュリアン・ルロアも広島、長崎のことを決して語らず、沈黙を貫いた。彼らを背後から見守っていたサンジェの孫のモニークは、こう語っている。
『自分から始まったすべての事柄が、どれほど遠くまで波及してしまったか、考えずにはいられなかったはずです。最初はただのビジネスマンからスタートして、その後起こったことについては、自分の領域を明らかに飛び越えてしまいました。それこそが沈黙した理由かもしれません』(「原爆裁判」山我浩著第一章より 抄録)
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サンジェは 優秀な鉱山技師、強かなビジネスマンだ。誰も見向きもしなかったウラン鉱石に目をつけ、先を見越して確保する。商機を見定め 売り込む。
商材が普通の物であったなら、殊更には 問題視されないたろう。しかしサンジェのそれは、高純度ウラン鉱石であり、サンジェの利益追求の先で原爆となり、数十万人の死を招く事になる。
サンジェの意識は、それを「他人事」としている。
サンジェの行為は、結果の大きな原因要素でありながら、意識は断絶されている。これが、一番の構造的問題だ。そしてサンジェだけでなく、原爆だけでなく、私達人間全てに、環境問題始めあらゆる問題に、当てはまる。
「虎に翼」に絡めるならば、「家族裁判」が「司法裁判」に勝る所以であり、「ピア(民衆)政治」が「代議政治」に勝る所以でもある。
ひとり一人の「心象世界」の調和融合を図らない限り真の平和は訪れない。
光