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読書メモ23「善と悪の生物学」序章


私たちは暴力そのものを憎んでいるわけではない。私たちは暴力をまったく問題ないと思うことがあるのだ。

本書は暴力、攻撃、そして競争の生物学〜その背後にある行動様式と衝動、そして個人、集団、国家の行為、どういうときにそうした行為が悪行になり、どういうときに善行になるのか〜を探る。人間同士がどうして傷つけ合うかについての本である。しかし、人びとが どうして逆のこともするかについての本でもある。協力、提携、和解、共感、利他行動について、生物学から何がわかるのか?

私は神経生物学者と霊長類学者の兼業で生計を立てている。したがって本書は科学、とくに生物学が基盤になる。そこから三つの大事なポイントが生まれる。第一に、攻撃、競争、協力、共感のようなことを、生物学抜きで理解できるようにはならない。私がこう話すのは、ある種の社会科学者のためである。彼らは人間の社会的行動について考えるのに、生物学は無関係であり、イデオロギー的にちょっと疑わしいと思っている。しかし、第二に、同じくらい重要なこととして、生物学だけに頼れば、同じくらい途方に暮れることになる。私がこのように述べるのは、社会科学は「本物の」科学に吸収される運命にあると考えるタイプの「分子原理主義者」のためである。そして第三のポイントとして、あなたが本書を読み終えるころには、行動の「生物学的な」側面と「心理学的」または「文化的」と表現される側面とを区別することは、じつは意味をなさないことがわかるだろう。

こうした人間行動の生物学を理解することは、もちろん重要である。しかし残念ながら、それは恐ろしく込み入っている。私たちが関心をもつのは人間の社会的行動、そして多くの場合、人間の異常な社会的行動である。それは実際にごちゃごちゃしていて、脳の化学、ホルモン、感覚刺激、出生前の環境、幼時の経験、遺伝子、生物学的および文化的進化、そして生態学的圧力などが関係する問題なのだ。

人は複雑で多面的な現象に対処するとき、ある認知戦略を使う傾向にある。カテゴリーに分類するのだ。あなたの横にオンドリがいて、通りの向こうにメンドリがいるとしよう。オンドリが「イケてる」性的な求愛行動を見せ、メンドリはすぐに、オンドリと交尾するために走って通りを渡るとしよう。なぜメンドリは道を渡ったのか?
精神神経内分泌学者なら、こう答える。「メンドリの血中エストロゲン濃度が脳の特定の部位に作用し、オスの発するシグナルに敏感に反応させたのだ」。
生物工学の専門家「メンドリの足の長い骨が骨盤(またはそのようなもの)の支柱となり、そのおかげでメンドリはすばやく前進できた」。
進化生物学者「数百万年にわたって、繁殖能力があるときに求愛行動に反応したメンドリが、より多くの遺伝子のコピーを残してきたので、いまではそれがメンドリの生得行動である」。
そんな具合にカテゴリーのなかで、つまりそれぞれの科学分野のなかで考えるのだ。
本書の目標は、そのようなカテゴリー思考(分類思考)を避けることである。
カテゴリーで考えると、二つのものがどれだけ似ているか、どれだけ異なるかが見えにくくなる。事実について考える能力を台無しにしかねない。

このように、本書の明示的な知的目標は、道路を横断するメンドリよりも複雑な人間の行動の生物学について考えるとき、個別のカテゴリーを使わないようにすることだ。

その代わりにどうするのか?
いま行動が起こった。なぜ起こったのか?最初に説明する分野は神経生物学的なものになる。
①行動が起こる一秒前に、その人の脳内で何があったのか?
②数秒前から数分前にかけて、その行動を生じさせるような神経系の引き金を引いたのは、どのような光景や音やニオイ だったのか?
感覚刺激に対して、個体の反応の仕方が変化したのは、数時間前から数日前にかけてどんなホルモンが作用したことによるのか?
それまでの数週間から数年間の環境のどんな特徴が、その人の脳の構造と機能を変化させ、ひいては、そうしたホルモンや環境からの刺激に対する反応を変えたのか?それからさらに個人の子ども時代へ、胎児の環境へ、さらには遺伝子構成へとさかのぼる。そのあと、その 一個人より
もっと大きな要因まで含めるように視野を広げる。
⑤文化はどのようにしてその個人と同じ集団で生きる人びとの行動を形成したのか?どんな生態学的要因が、その文化を形成したのか?
その行動がどのように進化してきたかということや、太古の昔に何が起こったかということまで考察していく。

そう、これは改善を意味する。本書では、行動のすべてを単一の専門分野で説明しようとする(つまり「あらゆることが、この特定のホルモン/遺伝子/子ども時代の出来事[どれかお好きなものを選んで]についての知識で説明できる」とする)代わりに、たくさんの専門分野について考える。しかし、より繊細な作用があり、それこそが本著における最も重要な考え方なのだ。
それは、ある行動をひとつの専門分野の知識で説明するとき、暗黙のうちに、あらゆる分野を引き合いに出しているということだ。どんなタイプの説明も、先行する作用の最終結果であるはずだ。
じつは専門分野ごとに区別されたカテゴリーなどない。どの要因も、その前に生じた生物学的作用すべての最終結果であり、そのあとの要因すべてに作用することになる。したがって、行動がひとつの遺伝子、ひとつのホルモン、ひとつの子ども時代のトラウマによって引き起こされると結論づけるのは不可能である。なぜなら、ある種の説明が引き合いに出された瞬間、事実上、すべての説明が引き合いに出されているからだ。カテゴリーはない。ある行動についての「遺伝学的」あるいは「神経生物学的」または「発達上の」説明というのは、略式のものにすぎない。複数の要因が絡み合った全体像に特定の視点からアプローチする便宜上の、とりあえずの説明なのだ。
「複雑なことについては複雑に考えなくてはならない」

専門主義の弊害
私に赤ん坊と、彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。私はその子を訓練して、私が選んだある専門家に、その子の祖先がどうであろうと、きっとしてみせよう(J・B・ワトソン)

精神障害はシナプスの乱れの結果として生る。..シナプス調節機構を変更して、神経インパルスの経路を変更しなければ、その経路に対応する思考を修正できない。(エガス・モニス=ロボトミー開発者)

人類が家畜化による退化で破滅したくないなら、身体的強靱性、英雄的精神性、社会的有用性での淘汰が、人間社会によって実現されなければならない。(コンラート・ローレンツ)

(「超一流」の「専門知性」のもたらす「大いなる誤謬」)
        光

これで知力を試される最初の難題がわかった。つねに専門分野の垣根を越えた考え方をするべきなのだ
第二の難題は、類人猿、霊長類、哺乳類としてのヒトを理解することだ。どんなときにほかの動物と似ていて、どんなときにまったく異なるか。
ほかの動物と同然のこともある。たとえば、おびえているときのヒトは、いじめっ子に悩まされている劣位の魚と同じホルモンを分泌する。ヒトが喜ぶときの生物学的プロセスには、カピバラに見られるのと同じ脳の化学物質が関与する。二匹の雌のラットを一緒に囲いに入れると、数週間のうちに生殖サイクルが同期する。同じことを二人の人間の女性で試すと、同じようなことが起こる。そして暴力に関しては、私たちもまるで類人猿のようになる可能性がある〜挙で殴り、棍棒で殴り、石を投げつけ、素手で殺す。
そういうわけで、ヒトとほかの種とにどんな類似点がありえるかを理解することが、知力を試される難題となる場合がある。ほかの種とほとんど変わらない生理機能が、ヒトという種においていかに斬新に使われているかをきちんと理解することが課題になる場合もある。愛らしい赤ちゃんパンダに対する反応として、子育てと社会的絆に関連するホルモンを分泌する。そしてこれは確実に攻撃にも言える。私たちはイデオロキーを理由に誰かに暴力を振るうとき、雄のチンパンジーが性的ライバルを攻撃するのに使うのと同じ筋肉を使うのだ。
最後に、他に類を見ない行動であるため、人間らしさを理解するのに人間だけを考察するしかない場合もある。私たちは引き金を引いたり、うなずいたり、そっぽを向いたりするなど、身体的負担のないことをすることによっても危害を加えることができるが、これはほかの種には見られない。すべての種は特異だが、私たちはきわめて特異な意味で特異である。(「善と悪の生物学」ロバート・M・サポルスキー著NHK出版より 要点略記)

   ・・・・・
上下2巻、千ページを超える大著、まだ読み始めたばかりだ。
問題意識は、私が、「虎に翼120話」の感想に書いたものと おそらく重なる。(私は観念だけだが、あちらは実証を伴う)

解明は、始まったばかりに過ぎない。その事を承知の上で、解明されつつある生物学的人間性と、「社会科学」文化、道徳..を統合した 社会制度への移行を、目指していく必要があるだろう。
         光


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