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読書メモ16 レジリエンスの時代ジェレミー・リフキン著 第11章

代議制民主政治『工業の時代』の初めには、政治的妥協として有効であり、国家と地方の間の、均衡を保つことができた。再野生化する地球では、統治はコミュニティの問題として「乗組員は全員ただちに甲板に集合」という掛け声が、新しい種類のコモンズ方式の統治を反映している。
この新しい統治では、各自の直接的な関与が格段に深まる。
気象災害はまるごと一つのエコリージョン(生態地域)に影響を及ぼす。気象災害が起こりやすい世界では、旧来の政治的境界は、解決策を探す邪魔になる現実に、私たちは目覚めつつある」(p.308)

ヒューロン湖

時代の流れ】にどこまで【竿挿す】事が出来るのか⁇       光

「幕を開けつつある人新世には、農村社会は、中規模のスマート化された都市や町とともに、復興され、勢いを増す可能性が高い。
デジタルで相互接続されてグローカル化した世界では、生産と流通の固定費と限界費用が急速に下がっており、『工業の時代』の特徴である垂直統合型の『規模の経済』は、水平型の『規模の経済』に急速に道を譲りつつあり、二〇世紀に優勢だったグローバル企業よりもハイテクの中小企業が有利になっている」(p.311)
「自然界から遮断された巨大都市の、人工的な密閉環境に何百万もの人を住まわせておくのは、文明崩壊を引き起こす絶望的な処方箋だという感覚が、おおむね無意識のうちにせよ、募っているのかもしれない」(p.313)
気候変動の影響は、エコリージョンごとに違う。だから、旧来の政治的な境界を拡張し、少なくとも部分的には、同じエコリージョンを共有する近隣地域やコミュニティが共同で保全・管理できるようにすることになる。この、始まったばかりの『生物圏政治』という政治的な目覚めから、新しい統治の概念が生まれつつある。それは、『バイオリージョン(生命地域)統治』と緩やかに定義されるものだ」(p.318)

人為による恣意的な統治形態・内容から、環境に引き寄せられ、寄り添う統治形態・内容へ。  光

オンタリオ湖

科学界は、バイオリージョン統治の文脈と予定を確立し、地球の半分を再自然化するよう呼び掛けている」(p.318)
「一九九一年、アメリカとカナダの州や準州が集まり、太平洋北西経済地域(PNWER)の後援の下で、カスカディア・バイオリージョン全域の保全と管理のために、大陸内共同体を創設した」(p.326)
カスカディア地域では、きちんと形式化されたバイオリージョン統治へのアプローチの確立が著しく進んでいるが、ローレンシャン/五大湖バイオリージョンを共有するアメリカとカナダの統治区域にしても、それは同じだ。アメリカとカナダにまたがる五大湖は、地球上で最大の淡水域であり、この惑星の地表淡水全体の二割をたたえている」(p.327)

ミシガン湖

「統治区域〜エコリージョン経済社会〜を整合させるのは、難しい注文であり、バイオリージョン統治の試金石と言える。第一次と第二次の産業革命の特徴だった経済的成功の従来の基準から、新たに始まった第三次産業革命と、第三次産業革命からレジリエンス革命への変容を際立たせる新しい基準への移行に着手するにあたって、新しいバイオリージョン統治は試されることになるのだ。効率から適応力へ、進歩からレジリエンスへ、生産性から再生性へ、外部性から循環性へ、所有からアクセスへ、GDPから『生活の質の指標(QLI)』へと、経済の業績を再調整するのは、負担が大きい。うまく釣り合いを取りながらこの移行を達成することが、カスカディアや五大湖をはじめ、アメリカとカナダと世界における、バイオリージョン統治にとって、最も重要な課題となるだろう」(p.330)

ミシガン湖

「進行中のバイオリージョン統治の試みのすべてが直面するジレンマがある。二つの競合する世界観の板挟みになってしまうことだ。『工業の時代』全体を通して受け継がれ、『効率化という福音』に埋め込まれた世間の通念に従い、環境保全を厳密に商業的な観点から捉えるのか?もしこの従来の考え方が優勢になれば、バイオリージョン統治は、五大湖の生態系との、より視野の狭い人間中心の関係にとどまることになるだろう。そして、生態系が必要とするものにどのように社会が適応できるかではなく、社会の実利的なニーズにどのように生態系を適応させられるかに着目し続けることになってしまう。
これは重要な区別であり、緊急に検討する必要のある問題だ。それは、渡るのが難しい橋であり、これまであまり通る人もいなかった道だが、もし人類が生き残って繁栄したければ、この先にたどるべき道筋なのだ」(p.333)

エリー湖

リフキンの語りは、どちらかと言えば「自動運動」の様であり、「福音」の様であり、「予定調和的」だ。人間の存在も、感性も理性も、環境依存物であるとすれば、頷けなくもない事ではある。けれど、もう少し「主体的関わり方」は無いものなのだろうか?

神から「全能」を譲り受けたつもりで居た人類(近代人)が、実はやはりお釈迦様の掌の上に居た事に気付き始めた。
環境世界は何処へ向かうのか?人類の力は、環境世界を大きく変容させる力を持っている。けれど、環境世界はその変容をも包み込んで展開していく。また、人類の力の動向、感性・知性・行動の全てを方向付けている。
突っ走るのでなく、引きずられるのでもない主体性とは、どんなものなのか。
        光

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