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すべての"風呂キャンセル界隈"の幸せを願って


わたしは、風呂が嫌いだった。
理由は単純明快、「めんどくさい」から。


そして、この「めんどくさい」をときほぐして細分化してみるだけでたぶん論文が書けて、簡単に紹介すると、まず「化粧を落とす」というひとことに

①マスカラリムーバーを塗ってつけまつ毛を外して洗う
②コットンとアイメイクリムーバーでアイメイクを落とす
③乾いた手でクレンジングを顔に馴染ませる
④シャワールームに入りお湯を出して手を濡らしクレンジングが白く濁るまで乳化させる
⑤顔を摩擦しないようにお湯を手ですくって顔に何度も当てて丁寧にクレンジングを落とす

という工程が含まれており、さらにそこからシャンプー、コンディショナー(わたしはブリーチをしているピンク髪なので場合によっては色を注入するためのピンクシャンプー)を揉み込み、ukaのスカルプブラシで頭皮のマッサージをし、トリートメントを浸透させているあいだに、混合肌の"油"部分である鼻とデコだけを狙い撃ちする洗顔を綺麗に馴染ませて余分な皮脂を落とし、ボディソープ、デリケートゾーン用のソープ、剃毛、場合によってはボディスクラブでからだをこすりながら全身のマッサージをする(足を細く、腹を薄く、胸をデカく、肌をやわらかくするための焼け石に水)。お風呂を沸かしている場合は、お湯に浸かりながらインバス用のパックを塗りたくったり、マッサージローラーで四肢のリンパを流したり、発汗用のバスソルトを入れて飲料水を持ち込み、バカみたいに汗を流したりする。

こうしてからだの芯まであたたまってスッキリリラックス、かと思いきや、実はお風呂を上がったあとが真の勝負で、バスタオルでからだを拭くや否や、過乾燥しやすい状態の顔の水分をティッシュかコットンで素早く吸い取り(タオルで顔面を拭くと雑菌がつきやすく肌荒れの原因になってしまうらしい  マジ?)、導入美容液、化粧水を何度も叩き込み(レイヤリングという)、お肌のコンディションに合わせた成分のパックをしているあいだに全身にもボディミルクを塗りたくり、元気がのこっているときには全身のマッサージをし、髪が乾いて癖づかないうちにウォーターミスト、ヘアミルク、アウトバス用ヘアオイルを順に揉み込み、ドライヤーで丁重に乾かす。濡れている髪はデリケートなので、引っ掛かりのないよう丁寧にくしでとかしながら、キューティクルを閉めるためになるべく真上から風をあてる。温風と冷風を繰り返し、乾き漏れている部分がないか細心の注意を払いつつ、乾かす時点でなるべく癖が伸びるよう引っ張る。



ミシュランの食材か?

美容に興味のある方ならわかってくれるとおもうけど、からだを磨こうとおもえばおもうほどに、この世には信じられない量のオプションが存在することに気がつく。

ひとつひとつの工程はたのしいし、見た目がアップデートされるたしかな感触が味わえるのはうれしいけど、それらのオプションが積み重なり、風呂1回にかかる意思決定の回数が増え、いつの日からか「風呂」という概念自体がわたしの首を絞めてくるようになった。わたしの「めんどくさい」には、ざっと殴り書きしただけで1,000文字分の工程が詰まっている。

世の中の習慣化系自己啓発書は、「3週間くらい続けて、歯磨きをするかのごとく日常になれば半自動的に行動できるようになります!」と言うけれど、ではあなたは、歯磨きを1日10回毎日欠かさずにできますか????(過剰セルフケアヒス構文)


さらに厄介なのが、コンプレックスの存在。
実はわたしはとんでもない癖毛の持ち主で、その上ブリーチをしてしまい、信じられないくらいのダメージ状態なので、お風呂上がりはほんとうに綿毛のような絶望的髪質になってしまう。シャンプーもコンディショナーもアウトバスヘアケアもドライヤーもヘアアイロンもすべて美容師さんのおすすめで揃えて、丁重で複雑な段階を踏んで、仕上げにナイトキャップまで被って、ようやく人の形程度の落ち着きになる。

さらに、幼少期から心の奥のほうにコツコツ堆積させ(られ)てきた体型コンプレックスが23歳時点でもまだ全力で牙を剥いており、鏡の前では基本的にお腹に力を入れてしまうし、自分の裸体を見るだけで自己否定をしてしまう。はやくキショい思春期から抜けたいのですが、解脱はいつ頃になるでしょうか…。



とにかく、これらの強迫的工程の数々と根深いコンプレックスにより、いつしかわたしにとって、風呂は"呪い"と同義になってしまった。あまりの壁の高さに入浴を渋りながら寝落ちてしまい、夜中や朝方に入ることもあったし、精神が壊れかけているときはとくに、裸の自分と向き合うことすらも消えたくなるくらいしんどかった。


𓂋⟢˖⊹ ࣪


最近、「風呂キャンセル界隈」という概念が話題を呼んでいる。

調べるとAIによる要約がすぐ出てくる 
テクノロジー、セクシーサンキュー。


発端はX(旧Twitter←もうTwitterでいいだろ!とずっとおもっている)への投稿で、あるアカウントが「お風呂に入るの嫌すぎ」という言葉とともに、入浴しなくても使えるドライシャンプーを紹介したことがキッカケとなって火がついたムーブメントらしい。


この言葉をはじめて見たとき、とてもいい風潮だな、とおもった。
欧米では2〜3日に1回のシャワーが主流らしいし、『自由論』の著者である哲学者のJ.S.ミルも「個人の自由は、他人を害さない限り行使されるべき」と言ってくれているし(ミルさん、時を経て風呂キャンの合理化に自由論が使われるとは露ほどもおもっていないですよね、すみません…)、いい香りで、人様に見せていいとおもえる最低限のビジュアルが担保できて、ひとに不快感を与えなければ、人間は自由に風呂キャンをしていい。

さらに言うとそもそも、己を清め、あたため、心地よいものであるはずの風呂が、強迫的工程になってしまっている状態は、人生にとってちっともハッピーではない。手段と目的が逆転してしまっている。

たとえば、ヘアセットの魔法が解かれた癖毛を見たくない日は、頭は濡らさずドライシャンプー、からだをささっと洗うだけでいいし、むしゃくしゃする日は全工程をすっ飛ばして風呂にざぶんと入るでもいいし、汗ばんで気持ち悪い日は全身をてきとうに洗い流せばいいし(わしゃわしゃと洗われる犬さんのような気持ちで)、精神が限界のときはボディシートとドライシャンプーで全身済ませればいいし、デート前日で余裕のあるときにはルンルンの気持ちで丁寧に全身をスクラブすればいい。


この当たり前で、でも力の抜ける自由を手にしてから、わたしは風呂がすこし好きになった。トリートメントをほどこした髪のつやめき、スクラブを揉みこんだあとの肌のやわらかさ、熱めのお湯に首まで浸かったときの、身体の内側がじゅわっと溶けて思わず気の抜けた声が出る感覚、お風呂上がりのくすみの抜けた肌、そのひとつひとつを、純な気持ちで味わえるようになってきた。

入浴はあくまで清潔と幸せのための過程であり、外部から無用に強いられる苦行ではない。こんなに簡単なことに、なんで今まで気づかなかったんだろう。

風呂「キャンセル」界隈という言葉は、すでに風呂が「決定している」行為であるからこそ生まれたものだけど、わたしたちはもっともっと自由になっていい。風呂パス界隈でもいいし、風呂部分参加界隈でもいいし、浴槽オンリー飛び込み界隈でも、風呂ボイコット界隈でも、風呂好き界隈でも、もはや界隈とかではなく、その日そのときその気分に合わせて、幸せのために存分に風呂をつかってしまっていい。

いま苦しんでいるすべての"風呂キャンセル界隈"のみなさんが、どうか世間のあらゆる視線に惑わされず、今この瞬間の自分にとっての幸せを、軽やかに選びとっていけますように。

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