「すき」
(Twitter企画『 #すきの言葉が消えたなら 』参加作です)
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すきを意識化できないからこその辛さが和歌で表現されている。
なぜかわからない、だけどこういう現象がある。
意識化できないことは辛いのか。
意識化できないからこそ、振り回される。
すきの言葉が消えたなら、私たちは好きに振り回されるしかなくなってしまう。
すきの手綱をつかんで置くことができなくなってしまう。
だけれど、それが、本来の『すき』なのではないだろうか。
私たちは言語化することで、それを意識化することで、本来の『すき』の身勝手さを、捨ててしまったのではないだろうか。
振り回されるという快楽を、私たちは苦難として受け取るしかなくなってしまったのではないか。
「すき」という、その言葉は確かに隙をつくる。
思考をするための隙。「すき」という感情に振り回されないための、隙間。
「すき」を伝えることによって、私たちはじぶんたちの「すき」を簡単に鳴らすことができるようになった。
「すき」と言われた時に胸を襲う、痛みのようなそれは、たしかにどこか手放し難く、幸福だ。
だけど、「すき」は伝わりづらいからこそ、私たちだったのではないか。
伝わりづらい「すき」が、身のうちに染みた言動によって伝わってくるからこそ、それは尊いのではなかっただろうか。
だからこそ、「すき」を使わない百人一首のような昔の歌が、今も私たちの心を打つのではないだろうか。
「すき」の手綱を握ってしまった時、たしかに失くしてしまった何かがあるように思えてならない。
「すき」の苦しさを、制御してしまおうとする言葉は、果たして私たちに平穏を連れてきたのか。
その平穏が、恋の激しさと、それ故の幸福な痛みを、辛さに変えてしまったのではないだろうか。
「すき」という言葉は、その感情の獲得なのか、損失なのか、私はわからなくなってしまった。