最初のインテリアのイベントの仕事はフランク・ロイド・ライト
今では多くの人が詳しくなり語れるようになった名作家具。
私がインテリアの仕事に就いた頃はまだ日本では少なく、海外の家具やインテリアは遠い憧れのものでした。
それでも、最先端をいく特別な人たちが、海外から少しずつ優れた家具やインテリア雑貨を日本に紹介し、ネットがない時代は雑誌や本でそれらの情報を追いかけていました。
思い起こせば、学生時代の最初のアルバイトが、当時流通最大規模だった西武百貨店の営業卸部門で北欧のインテリア、ガラスのコスタボダの営業アシスタントでした。
そこで教えていただいたこと、見たことが漠然と’インテリア’という仕事に夢を感じ始めたきっかけだった気がします。
就職した三井不動産のマンション販売のアシスタントという仕事も多くの土地や家を知ることができ、社会人の基礎を多く学ぶことができ、自分の未熟さを知り、楽しかったですが、
形のない投資という不動産業界にはなにか違和感を感じ始め、もっと夢のある何かに関わりたいと漠然と思うようになり、休日には当時は数少ないインテリアショップを見てまわりました。それは刺激的でした。
日本で最初にできたインテリアコーディネーター資格は三井からで、私が幸い不動産のモデルルームの仕事で、三井のインテリアコーディネーターさん達と会う機会を得ました。すごく素敵で生き生きと私服で働く姿は大人の女性に見えました。まだ30代だったと思いますが。
アドヴァイスをいただきながら、夜間のインテリアスクールに入りました。インテリアコーディネーターになりたいと目標が決まりました。
ただ、もともと自分に何かできる自信もなく、目立つことは苦手で、根気もなく、長いキャリアとしては考えていませんでした。
なので、これも何となく、転職してみようかなと軽い気持ちで、三井を辞め(女性は2、3年での退職が普通だった時代)、いくつか受け、私のポテンシャルを受け入れてくださったのが、Cassina Japan カッシーナ ジャパン。
試験の経緯や内容などは以前書いたはずですが、実技試験で選ばれ、チーフコーディネーターという肩書きをいただき、インテリア業界での仕事が始まりました。
張り切っていたワケでもなく、欲がなかったからか、運よく実技試験がうまく(たまたま)出来、自分でも不思議で、これも振り返れば、’運と縁’ だったとつくづく思います。その後もこの、’運と縁’ が私の人生を支えてくれました。
チーフコーディネーターの仕事は、実に多く役割がありましたが、その一つに、イベントと仕事がありました。
イベントは営業活動と捉えていた、イタリアと日本の社長からの考え方から、どの方向で進むべきか、最初から理解できました。その初心はその後も信念に重なります。
カッシーナに入社してすぐ大きなイベントがあり、一つは、シャルロットペリアン来日イベントで、もう一つが、フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wrightの復刻家具の発表でした。
その会場の設営とレセプションの全てを任され、建築家やプロが多く集まるイベントで、それは強いプレッシャーを感じ緊張に押し潰されそうでした。
しかし、いざ到着したライトの椅子たちを箱からだし見た瞬間、あまりの美しさに感動し、残業し夜中まで何時間も眺めてしまいました。
イベントの仕事はその後もカッシーナで20年間、実に数多く担当しました。
接客や営業やあらゆる仕事と兼務で、夜は接待も多く、地方も巡回するので、日々心身疲労が続き点滴を打ちながらでしたが、
美しいモノに ’触れる’ ことができる特権は、特別なものでした。
そしてその感動を、使う方々、多くの人、お客様と共有できることが最大のモチベーションでした。
そして、毎日目の前の仕事を懸命に続けていたら30代後半で会社が株式上場する準備から、役員に抜擢されました。
目立ちたくない、キャリアの野心がない、自信ない私にとっては、嬉しくないことでしたが、そこまでの経験から感じていた’使命感’ のような想いに突き動かされ、経営陣になることを受けました。
ああ、こういう、自分の適正に合わない役割が回ってくることって、子供の頃から何回かあったなあと、運がいいのか悪いのか、
でも、全ては人との出会いから始まって回ってきた役割、大切にしようと覚悟を決めるのです。あとは出来るとこまでやってみるしかないと。
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思うまま雑文長文を読んでいただきありがとうございました。
昔のことですが経験から書いていきたいと思います。どなたかのご参考になれば幸いです。