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【中編小説】純文学:暗黒に一縷の光ありけり。#2

――ここから少し過去に遡れば、そんなおれにも、大学一年の時、初めての彼女ができた。彼女の名前は吉岡茉奈(よしおかまな)。同じ大学に通っており、年齢も同じだった。彼女は京都生まれ、京都育ちのお嬢様である。容姿端麗でいつ会ってもキラキラしていた。常にブランド品を身に付け、メイクや髪型も洗練されている。
茉奈は大学時代に、公務員試験の勉強に励んでいて、デートの時まで公務員試験用のテキストを持参していた。
「優斗も一緒に公務員目指さへん? それでお互い関西で働こうや! 将来、二人で働いていっぱいお金稼ご? うちブランド品が好きやからお金かかるねん」と、夢に満ち溢れた表情で目を輝かせながら話していた。その言葉に少しばかり影響を受けたおれも大学三年の夏頃から公務員試験の勉強を始めて、大学四年の時にいくつか公務員試験を受けたが、結果はすべて不合格。一次試験の筆記試験すらクリアできなかった。そんな中、茉奈は、京都府内の市役所に難なく合格し、大学卒業と同時に公務員として立派に働いている。
おれは、正直、はじめから公務員になれる自信は皆無だった。だから茉奈には内緒でこっそりといくつか民間企業も受けていたのだ。そのおかげで、大学卒業間際に、唯一、今の家具屋から内定をもらえたというわけである。従業員数は社員、アルバイト、パートを合わせても十五人程度の小さな家具屋だが、内定をもらった時は「自分を必要としてくれたんだ……」という思いに耽って、喜びを嚙み締めたのもごく最近の出来事のようである。
公務員試験に落ち、福井県の家具屋に就職すると茉奈に伝えてから、彼女はおれに対する態度が豹変したように思う。まるで不用品を扱うような態度へと――。いや、もしかしたらそれはおれの思い過ごしかもしない。実際に、茉奈からそんな言葉を言われたわけではない。自分にそう言い聞かせては、僅かに残った自己肯定感を保つのに必死だった。
 
二〇一二年三月二十五日。
大学の卒業式の日。式が終わって、和気藹々(わきあいあい)と携帯の写メで記念写真を撮り合っている学生達から離れ、学内の隅にある大きな桜の木の下で、おれと茉奈は会う約束をしていた。周辺には樹陰(じゅいん)に憩(いこ)う者もいる。
そこで、茉奈から「うち、遠距離恋愛とか無理やから。もう別れよ……ごめん」と呆気なく告げられ、二人の関係に終止符が打たれた。別れを切り出されたおれは、特に驚きもせず、すんなりと受け入れた。お互いに「今までありがとう」と一言だけ言い合ってその場を去った。皮肉にも、そこは三年前おれたちがお互いの想いを伝え合い、カップルとしての付き合いをスタートさせた場所でもあった。
おれは、特段、大阪に愛着があるわけでもなかった。むしろこの地を離れてすべてをリセットしたかったのかもしれない。もともと父親が転勤族で、その都度、家族一緒に新しい土地に移り住んでいたこともあって、短いスパンで住む環境が変わることに抵抗はなかった。
 
二〇一二年三月二十七日。 
福井県福井市のアパートの部屋へ、最低限の荷物が詰め込まれた段ボール箱を運び込み終わったところで、何もない畳の床に腰を下ろした。
時刻は午後四時を回り、陽が傾き始めてきた部屋にポツンと独り置き去りにされた気持ちになったが、案外すぐにこの孤独な環境に馴染んだ。もともと独りで過ごすことが多かったこともあり、孤独には強いのかもしれない。
部屋にある家具は前に住んでいた人がそのまま置いていったとのことで、生活に困らない程度の物はすでに揃っていた。部屋中に漂う匂いが、どこか懐かしく、田舎のじいちゃんの家を思い出す。このアパートの周辺には田んぼしかなく、近所にある一番近い店は、三百メートルほど先にあるコンビニだった。
夜になると、がらりと辺りの雰囲気が変わり、一気に暗闇が広がっている。部屋の明かりを消したらまるで暗黒の地のようだ。二階建てのアパートには全部で四室あるが、二階の一室だけ入居者がいて、その隣の部屋をおれが借りた。
部屋の窓を開けた途端に虫の声が耳に入ってきた。明るい時間に見ていた風景とはまるで違っており、視界にはほぼ何もない。街灯もなければ店もない、ただあるのは聴覚を煩わしいほど刺激してくる虫の声だけ。
急に人恋しくなったので、隣人に挨拶にでもいこうかと思い、部屋を出た。二階の廊下は点滅した蛍光灯の光があったが、青白い蛍光灯の光が少し不気味さを醸し出している。隣人の部屋のチャイムを押したが、音が鳴らなかったので、ドアをノックした。すると全く反応がない。次はもう少し強めにノックした。そしたら、部屋の奥から、「はーい」と声がした。その数秒後にドアが開き、白髪(はくはつ)で丸い眼鏡をかけた紳士的なおじさんが目の前に現れた。年齢は六十手前くらいだろうか。
「今日、隣に引っ越してきた日向といいます。ご挨拶に伺いました。これ、よろしければどうぞ」おれは気持ちばかりの一本の液体洗剤を差し出した。
「わざわざ、どうも。遠慮なくいただきますね。私は佐藤といいます」
 佐藤さんは目尻に皺(しわ)を寄せてにっこりと微笑んでくれた。
表札がなかったため、当然名前もわからないし、どんな人が住んでいるのかもわからなかった数秒前からは考えられないほどの安堵感が湧いてきた。
「どこから来たの?」佐藤さんはドアをさらに広く開いて、興味津々に訊いてきた。
「大阪から来ました!」歯切れの良い口調で間髪入れずに答えた。
「大阪からきたんだね。何かわからないことや困ったことがあったら、いつでも私を頼ってください」
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします」と言って深々と頭を下げて、早々に自室に戻った。
 ひとまず、隣には人柄の良いおじさんが住んでいることがわかった。年季の入った部屋ではあるが、それなりに住み心地の良いところだという印象だったので、この土地で心機一転、新生活をスタートできそうだと期待に心が躍る。
段ボールに詰めた物を取り出し、部屋に設置したり、買い出しに出かけたりしているうちに、あっという間に数日が経った。
いよいよ四月一日、初出勤の日を迎えた。出勤前はかなり緊張していたが、いざ職場に行ってみれば、「なんだ、意外とこんなもんなんだなぁ」といった具合にすぐに順応できた。社会人としての新生活は決して悪くない滑り出しで、同期の橘と一緒に三日間の新人研修を受けた。研修では、先輩社員から簡単なビジネスマナーを学び、それに加え、家具に関する基本的な知識の説明を受けて、三日間の研修を無事終えた。
しばらくは、新入社員らしくフレッシュな振る舞いを心掛けたが、それはすぐに崩れ、店長から「君は肝が据わっているねぇ。ただ、もう少し目上の人をたてるということを覚えないと、これから苦労するぞー」と嫌味のような言葉を言われた。
それに比べて、橘は、周囲への配慮も行き届いており、世渡り上手な振る舞いを常に徹底していた。そのため、他の従業員からいつもちやほやされていた。おれは、橘の陰でひっそりと仕事をするような、そんなポジションに自然と落ち着いた。
幼い頃からいつもそうだった。路地裏にひっそりと咲く花のような目立たない存在。空気のような存在になりたいと頭の片隅でぼんやり思っていたので、ある程度自分の処遇には納得している。
 新卒で春に入社してから、瞬く(またたく)間(ま)に唸(うな)るような暑さの夏が来た。今年は猛暑らしい。蝉の声が遠くにそびえ立つ山々から田園風景の中にポツポツと立っている建物に木霊している。
九月に入れば蝉の声から鈴虫の声へと変わり、朝晩は長袖を着ないと肌寒い。季節の移り変わりを肌で感じる。

#3へ続く

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