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叱る…と言うことについて。
自信が揺らぐ?いや違う。私が思ったのは悲しかった。
その感情です。
そして何もできない。
といった自分への諦め。
何が起こったのか?
学校で子どもが先生に叱られました。
私は他の先生に叱られている子どもを見て、いたたまれなくなったのです。
ポロポロと涙を流している子どもは何も言えない。いや、「わかりました。と言いなさい」
と言われて泣きながら「わかりました」と言わされたのです。
ほんとにわかったのでしょうか?
その子がわかったのは、
この先生を怒らせたらこんなに辛い目にあうんだ。
かもしれないし、怖くて何も考えられなかったかもしれません。
恐怖で支配する。
そんな風に思いました。
でも厳しくすればそれなりに効果はあります。
怖ければ言うことを聞くようになるのです。
そして指導者は
叱ることでこの子は良く変わっていくのだ。
私はこの子を良くする為に叱っているのだ。
と言う正当な理由があるのでそれは躊躇うことがありません。
そして子どもは言うことを聞きます。
なので、何かをやらせようと思えば、いやと言えず練習するのでできるようになります。
そして何かの発表会のときには、見ている人たちにも褒められるし、保護者も喜びます。
そうすれば、指導する方も益々自信をもつのです。
ただ、厳しくするだけではなく優しくすることもあるので子どもたちもついていくのです。
今、書いていて思いました。
以前私が目指していた先生像です。
厳しくて優しい先生。
それを目指していたのです。
だから、それはそれで良いのでは?
いえ、私は今はそこを目指していません。
それはなぜか。
私は多分以前より自分のことを大切にしようと思えてきたので。
子どもたちのことも大切にしたい。恐怖で従えさせるようなことはしたくない。
と思うようになったからだと思います。
そして、このnoteでも色々な方の投稿を読み、生き辛さを抱えて生きている方の思いもわかり、それぞれの子どもたちをいかに個として見て尊重することが大切なのかと言うことも改めて考えさせられています。
あめとムチと良く言われますが、私はやはり自分で考えられる能力を身につけて欲しい。強い人の言いなりになるような生き方をして欲しくないと思うのです。
発達に特性があるとしても、大勢に合わせることが正しいのでしょうか?
集団行動が取れないのは、強制しなければならないのでしょうか?
できないからといってその度に叱られていたら。
でも多分、過去に私もそれをしていたのです。
仕事でも、子育てでも。
できるなら過去に戻ってやり直したい。
でも過去に戻ることはできません。
だから何もできないのか?
そう考えたとき、伝えることはできるのではないかと。
もし生き辛さを抱えているなら自分を受け入れることができていないなら…
私がしたことを本人がどう思うかはわからないですが、でも前を向いて生きて欲しいと。自分が変われたようにいくつになっても人は変われると言うことを。
話がそれてしまいましたが、とにかく今私にできる支援は何か?
それを日々考えながら仕事も日常生活もしていきたい。
と改めて思いました。
もちろん、叱ることがまるきりない訳ではありません。
でも、恐怖で従えさせるのではなく、本人がちゃんと理解してできるように、叱ることもできるはずです。
そして特性のある子であるならば叱らずにその子にあった指導を考える。それをする努力が必要だと思うのです。
自分のことを知る。
と同じように、
子どもたちのことも知る。
ことで色々な手立てが考えられます。
それを探して、勉強して対処するのが私の仕事だと思います。
叱られていた子を見て、何もできない。それを止めることができない…と思って辛かったし、諦めに似た感情をもった私でしたが、
その子が叱られないように私が先に手立てをすれば良いのです。
ちょっと先が見えてきた気がします。
noteのおかげです。
それでダメでもまた、違うやり方を探してみます。
ふう。
だいぶ落ち着いてきました。
諦めるのはまだ早いですね。というか、諦めるのはやめようと思います。
私はやっぱり負けず嫌いです😅