商品化される「絶望」
Noteを一か月近く続けてきて、閲覧数が伸びた記事とそうでない記事の差がはっきりとしてきた。閲覧数が伸びるのは
「自己啓発的コンテンツ」
「希望的コンテンツ」
「タイトルに有名人の名前の入ったコンテンツ」
「文字数の比較的多いコンテンツ」
であり、閲覧数が伸びなかったのは
「個人の絶望系」
の記事である。
絶望系が伸びないのは無理もない。よく知りもしない人間の絶望を見るほど人は暇でない。求められてもいない。
「役に立つ」「ためになる」そういう自己啓発系のコンテンツが求められているのかなと感じる。
Noteは一部の意識高い人たちがこれからは個の時代だ!発信しよう!金じゃなくて信用を集めよう!っていう気持ちもと日夜切磋琢磨する戦々恐々とした空間なのかもしれない。
そこでは個人の絶望をいくら語っても誰も興味ないのだ。
・・・・・・とそんな風に何もかもを環境のせいにして逃げようとする自分にほとほと嫌気がさす。
関係ないな、環境は。
個人が興味を持たれるに足る人間なら絶望もまた価値をもつ。ヒカキンの絶望とかちょっと知りたいし。
単に俺のコンテンツ力が低いだけだ。自己開示が甘くて共感しにくいし、記事の方向性も四分五裂、論理もところどころ破綻して支離滅裂だ。
精進しよう。
まあ、でもちょっと頭の片隅に引っかかったセンテンスがあるから、それについて思うことを書く。
絶望を語る時代が終わった
絶望を語る時代が終わった。そんな言葉がちらと頭をかすめたので理由を考えてみた。
そもそも絶望が流行るのはそこに共感があったからだ。同じ程度、同じ有様でなされる絶望に対し、僕らは自らを重ね合わせ、共感してきた。
絶望がもし不要とされるならば、それすなわち、絶望する人が減ってきたことにほかならない。
理由を3つ考えた。
ポジティブ思考の浸透
一つ目はポジティブ思考の浸透、である。ポジティブシンキングということばが市民権を得てからどれほど経ったであろう。私の記憶では10年前には松岡修造氏はじめ、ポジティブ思考の伝道師たちがこぞって布教し始めていた印象がある。
10年だ。短くない年月である。その間に人々はポジティブ思考を身に着け、絶望を減らすことに成功したのではないだろうか。
絶望の相対化
二つ目は、「絶望の相対化」である。インターネットによって人はさまざまなコンテンツに触れられるようになった。人々が多種多様な絶望に触れることで、自分の絶望などありふれているしたいしたものではない、という思考を手に入れたのではないか。個人の絶望が相対化されたのだ。
絶望の商品化
三つ目は「絶望の商品化」だ。インターネットによって繁茂した絶望は飽和状態を越えた。そしてその中でもえりすぐりのものがきれいにラベリングされ商品されるようになった。絶望はもはや絶望ではなく、ビジネスの一部に生まれ変わってしまった。いったい誰がそんなものを求める?
いいやここまで書いて気づいた。核心に変わった。
絶望はちゃんと売れている。
個人の絶望を買う人間は沢山いるではないか。絶望はうまくラベリングすれば売れるのだから、ちゃんと人に求められているのだ。
俺の絶望が読まれないのは、やはり、ラベリングも商品の中身も安っぽくてしょぼいからに他ならない。
では売れる絶望とはどんなものか。それを俺は今後も考え続けるとしよう。