まわることで、かならず達成できる目標に気付く今日
あと 2 週間もしないうちに、もう、次女が 1 歳になる。はやいけど、すごい。
お誕生日には家族写真を撮る、ということしか、まだ決まっていないけれど、お誕生日を祝えるって、すごく嬉しいこと。今からとても楽しみにしている。
この 1 年をふり返りながら、こうやって、生まれた日がはじめて巡ってくるって幸せだな、と感慨にふける。
そして、ふと、世の中って、まわっているんだな、と感じる。
時の流れが、ただ棒のように、前に一直線に進んでいるだけでは、誕生日はこない。
春、夏、秋、冬。
それから、春、夏、秋、冬…。
まわっているから、誕生日がくる。
私がまわっている、というのは、こういうイメージではなくて。
こういうイメージ。
らせんで、のぼっていっている感じ。
まわっているんだけど、同じところに戻ってくるんじゃなくて、進んでいる。
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1 年のはじめとかに、「この 1 年の目標は○○!」って決めることがある。
でも途中で、あぁ、もう半年たってしまった、とか、もう 1 年もあと○ヶ月なのに、と、1 年の残りを思いながら、次第にできないことに目がいってしまうことがあった。
でも。らせんのように、まわっている、と考えられたとき。
ちょうど、今日の、1 年前と比べてみたら、どうだろう。
1 年前の今日から、なにかしら、進んでいる。
明日になったら。明日のちょうど 1 年前と、比べてみる。
その次の日は、その次の日のちょうど 1 年前と。
毎日、そうやって、その日の 1 年前と比べるように、想像してみる。
すると、いつも、その 1 年前より、なにかしら進んでいることに気付く。
わずかな変化にはなかなか気づけないけれど、毎日毎日、1年前と比べて、なにかしら進んでいたことが感じられるなら、それは、毎日、なにかが進んでいることを意味していて、不思議なことに、1 年後は、自分はもっと、進んだ所にいる。
いま、らせん階段に立っている自分をイメージしてみると、自分のいま立っている下には、これまでの自分の軌跡が積み上がっている。
時間は流れ去っていってしまったのではなくて、まわっていて、ちゃんと、自分の積み重ねとして、地面になっている。そしてそれを土台に、進んでいる。
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また、今からちょうど「1 年後」を想像してみることもする。
1 年後の今日、こんなことできたらいいな。
そして明日になったら、明日の 1 年後を想像してみる。
そうすることで、今年はもう残りわずかになってしまったから、また来年になってから心機一転がんばろう、みたいな、目標の先延ばしがなくなる。
今日も、明日も、ずっと 1 年後を考えながら、目標を立て続けて、進める。
続けるってむずかしいけれど、常に今日の 1 年後を考え続けると、地道に、地に足をつけて、続けていくことができるように思う。
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今月、note 誕生から 7 周年を迎えたそうだ。すごいな、と思う。
1 年ってはやいのに、7 年は長い。
7 年前の自分を思い返しながら、そう思う。
7 年前には、今では、いないなんて考えられない娘たちが、まだいてなくて、顔さえ見たことがなくて、それどころか、まだ私自身がフランスに留学にすら行く前で、いまの自分を形づくっているいろいろな基盤が、存在すらしていなかったことに、すこし、「昔」を思い返すような感覚になる。
いろいろと苦しんできたことと、すごく幸せに過ごしてきたことの、ふたつのことが、平行にはしってきた。
この 7 年間、その平行線のなかでも、どちらも平行線は上向きで、進んでいた。
そんなことを思いながら、もうすぐ巡ってくる次女のはじめての誕生日を、いま、うきうきと、心待ちにしている。
7 年前には想像もしなかった、はるか進んだ先にいる自分と共に。
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先日、note 編集部さんに、「いつもの画面に、今朝は木漏れ日」と、「スターバックスの店員さんに、絵葉書を渡した日」の、ふたつの記事をおすすめにしていただきました。訪れてくださったクリエイターさん、非会員ユーザーの皆様、本当にありがとうございました。とっても嬉しかったです。