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短編小説:神の手(そろそろあれを手に入れる事を真剣に考えるべきだと思い始める)


「孫の手」が欲しいと思い始めて、三日が経った。

肩を痛めて、背中に手が届かなくなったからだ。
そのかゆみは何の前触れもなく、突然やって来る。
しかも、手が届かなくなった位置に。
届くところはかゆくない。またはかゆいと思った記憶がない。
きっと僕は知らず知らずのうちに対処して、無きものにしているのだろう。
そして届かなくなった場所にだけ、悪魔のような痒みが産まれる。
僕は我慢できずに、背中に手を伸ばす。
そして背骨のくぼみに沿ってゆっくりと上に滑らせていく。
キリキリと腕が痛み始める。
でも痒みが増して僕の手を要求する。
更に上に手を伸ばす。
あと少しで届く距離。
と、急に激痛が走る。
僕は痛みに耐え、大きなため息をつく。

こんな事をもう三日も続けている。
家族が居たらこんな時に助けてくれるのだろうけれど、ずっと独身を通してきた。
だから、そろそろあれを手に入れる事を真剣に考えるべきだと思い始める。
 

午前十時開店。

僕は近所のスーパーマーケットに来た。
普段なら食料品だけを買い、出て行くところだ。
だけど今日は違う。
いつも遠くに見ていた、この店に併設されている小さな百円ショップの前に居る。
そして辺りを見回し、なんとなく探し始める。
もちろん「孫の手」などというコーナーはない。
どういうカテゴリーに属するのか、見当もつかない。
とりあえず、日用品のコーナーの前を歩き始める。
でも、ちょっとした危惧が僕の目の前をチラチラとし始める。
 
~僕は「孫の手」を持ってレジに立つ。レジに居るのは、若くて綺麗な女の子だ。そして僕は四十を超えている。彼女は僕を見上げる。この人は、これが必要なのだと思う。憐れんだ目で僕を見つめ、心の中で小さく笑う~
 
僕は首を振った。
何か良い方法は無いか。
同情を受けない、スマートな買い方。
でも、健全な本と本の間にエロ本を挟むようなやり方はここでは通用しない。
「孫の手」はどこにも類似しないし、何処にも属さない。
つまり孤高な存在なのだ。
 

女の子へのいい訳は後から考えよう。

レジに立つ店員は、男だってありえるし、僕の事を同情する立場に居ない人間だってあり得る。
まずは「孫の手」を見つけるのが先だ。
後の事はその時に考えればいい。

僕はゆっくりと、そしてじっくりと売り場を見て回った。
でも、いくら探してもそれは見つからなかった。
旅行先の土産物屋にはいくらでもあるのに、ここには存在しないのだ。
百円で作れても、百円で売るにはもったいない代物なのか。
またはただ、単にこの店に無いだけなのか。
その時僕の背中に、むずむずとするものがやってきて、僕にまとわりついた。
またかと思った。
僕は一連の作業の後、悶絶する。
この痛みをもう何十回と繰り返しているのだ。
僕は確信した。
猶予が無い事を。
 

僕は「孫の手」の代わりになるものを探しはじめた。

まず最初に目についたものは、さえ箸だった。
長さは十分である。
でも、かゆいところに届いても、掻く事は出来そうになかった。
もし出来たとしても効果は期待出来なかった。
次に目を付けたのはしゃもじだった。
先端が幾分広く、さえ箸よりは効果が期待できそうだ。
持ち手も大きく問題は無い。
でも、「孫の手」には遠く及ばない。
まだ、柄のついた、たわしの方がましだと思った。
そして僕はそれを手に取ってみた。
それはいかにも「掻きむしれそう」だった。
効果はてき面だろう。
でもそれはやっぱり、たわしだった。
便器の中を磨くものなのだ。
そういうものが、リビングの真ん中に転がってる様子を想像した。
いつも手に届く距離が大事なのだ。
僕は、ため息をついた。
そして再び、かゆみがやってきた。
僕は背中を壁にこすりつけたい衝動に駆られた。
これ以上先送りには出来ないと思った。
 

僕は日用雑貨のコーナーをくまなく探し、再び、食品のコーナーにやってきた。

そしてさえ箸としゃもじの間に、見慣れないものを見つけた。
パスタの麺が絡まないように、ゆでる時にかき回す棒である。
汎用性のかけらもないが、それはいかにも「孫の手」だった。
形は全然違っていて、どちらかというと「猫の手」かもしれない。
または大きな歯ブラシ。
そしてそれは見る程に、とても僕の目的にマッチしているように思えた。かゆいところに手が届く。
微調整も出来る。
リビングに置いても、違和感がない。
そして何よりも、買う事に不自然さがない。
そうなのだ。僕はこの品物をレジに持って行く。
若い女の子は、僕を見上げる。
そして彼女は思うのだ。
この人はパスタが好きなのだと。

OK。問題ない。
というか一石二鳥だ。
僕は躊躇することなく、それを手にとりレジに並んだ。
何と言っても百円なのだ。
失敗しても、無かったことに出来る。
これが百円ショップの優れた点なのだ。
 

僕は今、リビングのソファーに座り、パスタをかき混ぜる棒で、背中を掻いている。

全くと言って良いほど、何の問題もない。
僕の要求を全て満たしてくれる。
むしろ、背中が早く痒くならないかなと思うほどだ。
しかしそもそも僕は、「孫の手」など、これまで使ったことが無かったなと、思い始める。
その存在理由について、考えたことすら無かった。
無縁だったんだ。
僕は遠くに来てしまったと思った。
歳を取ったのだ。圧倒的に何かを超えて。
そして、僕はこの棒が哀しかった。
本来の目的を果たさず、初老を迎えようとしている男の背中を掻く為だけの存在になってしまったこの棒が。
僕がそうさせたんだ。
永遠にパスタをゆでる時に使う事は出来ない。
 

一か月後、仕事から帰ると彼女が来ていた。

結婚するつもりはないが、合鍵を持っている。
そういう関係だ。
僕よりも十歳年下で、同じ職場で、僕の部下だ。
彼女は仕事を早く終え、僕の帰りを待ち、待ちきれずに自分だけ簡単に食事を作っていた。
リビングに入ると、僕が買い置きしていた
「シェフが選ぶ高級パスタの素」
の箱が転がっていた。

彼女は僕に、「お帰りなさい」と言って、「これを食べたら、いつものバーに飲みに行きましょう」と言った。
まあ、そんな女だ。
僕は「じゃあ、バーでオムレツを食べようかな」と言った。
僕は彼女の横に座り彼女が食べている、僕が食べる筈だったパスタを眺めていた。
そして、立ち上がり、キッチンに立った。
流しに僕の背中を掻いている棒が転がっていた。
僕はもう一度彼女の横に座った。
そして「美味しい?」と聞いた。
彼女は「食べる?」と僕に聞いた。
僕は小さく首を振った。
そしてあの棒に向かって、
「良かったな」と言った。

おしまい

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