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映画「傲慢と善良」の感想と考察【ネタバレ有・原作小説&パンプ読了済】

※本投稿は、「傲慢と善良」の映画の感想と考察を述べております。
原作小説・劇場用パンフレットの内容にも言及しており、これらの全てにネタバレへの配慮をいたしておりません。

原作小説・映画をご覧になるご予定の方は、読了後・視聴後にご覧いただきたい所存です。

また、本投稿は、いち視聴者・いち読者という立場から、つまり「お客様」として、”無遠慮に感じたまま”綴っており、まさにお前何様傲慢レビューとなっております。

私の感想が世の大多数の声でも唯一解でもないことを、ご理解の上読み進めていただきますようお願い申し上げます。

「傲慢と善良」ネタバレ有の感想と考察をご覧になる方はこちら













スクロールありがとうございます。
では始めます。

まず原作が凄すぎた!!!

辻村 深月さん、お名前は存じていたけど、私は女性作家さんの小説をあまり読まないので(1~3冊読んだのが20人位。数冊読んできたのは宮部みゆきさんと湊かなえさんくらい)、本作が初読書でした。

もう、全私が敗北した。

今でもゆるふわに「私…みんなが苦労なく婚活から結婚できるようになったら、ライトノベル作家を目指すんだ…」と夢を抱いている私に、9999ダメージを浴びせる圧倒的筆力。

奇しくも私と同い年、これほどの巧みな人物描写ができるなんて。

私が「上手いな!」と思う作家さんは、登場人物たちを、作家本人とは別の生き方をしてきた別人格のキャラクターとしてしっかり書き分けられる人。そしてそこに人間としての説得力を持たせられる人。

発言行動・心理描写で「皆、魂の出所はあなたですよね」と感じさせず、かつ、物語進行のための都合の良いキャラクターだと感じさせない描き方ができる人。

その上で、己の美学を投影する作家さんに(例えば漫画家の冨樫さんとか)私は惚れこむし、ひたすら冷静な作家さん(例えば乙一さんとか)に畏怖を感じる。

私が無知なだけかもしれないけど、女性作家さんで該当する方をあまり存じ上げなかったので、「いたんだな…!」と衝撃を受けました。

真実のお母さん、
真実のお父さん、
真実のお姉さん、
架のお母さん、
架の垢抜け才女な女友達、、
架の既婚の男友達、
仲人さん、
真実の二人のお見合い相手、

前半のミステリーパートの登場人物の生々しさと、そこから浮かび上がってくる「架の知らなかった真実」像。鳥肌が立った。

特に、私が仲人なこともあって、小野里さんの描写にはめまいがした。
なんなんだ、この説得力は。この道11年の私が、思わず「パイセン」と呼びたくなるこの厚みあるキャラクターを、どうして婚活業界の素人が書けるのか。いったい、どれだけの業界関係者に聞き込みしたら、ここまで完成度の高い「ベテラン仲人」を作り上げられるのか。

と思っていたら、パンフレットに「結婚相談所に取材はしていない」と書かれていて、爆死しそうになりました。

「あの…、これ、小説じゃなくて映画の感想ですよね」

と困惑中の皆様にお伝えしたいのは、私は、この作品を(勝手に)「人間ドラマ」だと理解していて、この作品の一番の魅力は「秀逸な人物描写」にあると感じていた、この先で申し上げる映画の感想は、そういった前提で鑑賞した人の感想だ、ということです。

率直に言います。

誰ですか、この監督でGOサイン出したのは。


※あくまで一個人の感想です。

力量の話ではなく、相性の話として言うのですが、味わい深い人間ドラマをオシャレンティロマンチストの手で映像化するなど、悪手としか思えないのですが、一原作ファンにはあずかり知らぬのっぴきならないご事情があったのでしょうか。

水田 伸生さんとか塚原あゆ子さんを起用されていたら、まったく違った作風に仕上がっていたと思うのですが、興行収入的に、恋愛映画としてウケるものとして最適化しなければならなかったのでしょうか。

原作を好む層と、映画館に足を運ぶ層がさほど一致していなかったのは理解できます。映画は、Kis-My-Ft2のファンや、映画デートをする男女の集客頼みで作られたのでしょう。

それゆえ、ビジュアルモチーフ&パッチワークでオシャレ喉ごし爽やかに仕上げ、生々しさ・えぐみを捉えるのを敢えて避けたのか。

それとも、この監督の表現の優先順位が、オシャレンティ>作品の精神性の遵守だったのか。もしくは単純に人間を描くのが苦手な監督だったのか。

あけすけに言うと、映画独自の演出のいくつかに、私はとてもガッカリしました。

例えば、真実が、同僚から贈られた花束を手でくしゃあっとした後、歩道に遺棄する、という映画オリジナルな行動。
衝動的に花を潰すまでは理解できるのだけど、”善良”な人達からの贈り物を、”人の目も多い歩道”に捨てて去るのは、彼女の人柄を想像するに「過ぎた行為」に思えた。

劇場パンフレットより画像転載。絵面としてオシャレですけど…

脚本家さんが考えたシーンだったかもしれないし、”善良”に生きてきた彼女が、翌日誰にも何も告げずに姿をくらますほど頭に血が上っていたことを示す象徴的なシーンなんです、と言われたら、そうなんですね、としか言えないけれど。それでもゴミ箱に捨てるんじゃないかなあと。映画全体通して”いい子な真実”が見えずらい構成だったせいか、ただただ「自己愛が強く自分本位な女性」の印象を強めてしまったように思えた。

白い花、
熱帯魚、
時計や風車、

モチーフ表現は素敵で結構なのですが、視聴者に「架から見えていた彼女の”ちょうど良い子”」への納得感”も”ある程度は持たせられないと、前半、架の独り相撲感を、冷ややかに見守るしかなくなる。

あと、架の鈍感具合が、おバカさんに見えすぎる演出も残念だった。

原作内で圧倒的ボリュームを誇る「架の心理描写」、鈍感だけど他者理解を深めていける頭がある、ここを短い尺の中でどう見せていくかが映像化の課題だと思っていたのだけど、単純に他人に無関心で想像力が足りない男になり下がっていた。(ように私には見えた)

例えば、真実が母親から理不尽な支配を受けていたことがわかる発言を聞いた時、原作の架の心は、ちゃんと言葉を持っていた。彼は時間軸が進むごとに、ただ出来事を知っていくのではなく、「真美と自分という人間」について知っていく。そこを描かないと、薄っぺらいお花畑映画になり果ててしまう。
真実も成長するけれど、恋愛としての成長はほとんどしないので、ラブロマンス映画として成熟したものを描きたいなら、架側の成長をちゃんと見せないといけない。

脚本家さんはかなり頑張っていたように思えた(後述)ので、余計に仕上がった形がこうで、残念でした。

原作と映画は別物。ええ、そうでしょうとも。

原作の威を借りて安定した集客が見込めるthe 恋愛映画を作った、原作は話のタネ提供程度の立ち位置、ということなのかもしれません。そうであったなら原作好きは、「こりゃまんまと釣られちゃったネ☆」ということなのだと思います。

映画全体通して、「原作の精神性を踏襲していない」ことが、個人的に非常に遺憾でした。

その他、キャストさん等についても所感を述べていきます。

真実役の女優さんが素晴らしかった

奈緒さん、すごくおきれいな方なのに、あれだけ芋っぽさを演出できるのが凄いと思った。
元の顔立ちが美しければ雰囲気が芋っぽくても男は惹かれる、近しい能力を持ち認めあえるような垢抜けバリキャリ女性よりも(時に)女として・パートナーとして好ましく思われる、選ばれるというリアルに説得力を持たせていた。

ベットシーンの、「重いこと言って、ごめんなさい」すごく良かった。才能にあふれた方だと思った。
ベットシーンは個人的にもう少し濃いめなのを観たかった。

架くんの俳優さんがとてもしっくりきた

藤ヶ谷太輔さん、鈍感ゆえの「いい人」感、最高に出ていた。

以下、役者さんの問題ではなく演出のせいだと思うけど、架という人間が薄っぺらく描かれすぎている気はした。

他人に対して関心なさ過ぎて、大抵のことは「へー」「ふーん」で素通りしちゃうような。「今の相手の話聞いて、そんな、晩飯の献立について聞かされているような顔になるか?」って思えたシーンがいくつかあった。

持ち物一つとっても、ロレックスに外車って、アイコン的な演出で心が落ち着く人が、とりあえずこれ選んでおけば、な王道テンプレートすぎて(そう思われやすい組み合わせすぎて)、それを制作側がわざと象徴として見せているであろうことがなんというか、モテハイスぺイケメンに悪意でもある?と思えてしまった。

なんだかんだ彼は、バリキャリ女性達が想いを内に秘めながら友達し続けるような、高学歴シゴデキモテ男なはずなんですよね。33歳で急死した父の穴を埋めるために、勤めていた会社を辞めて社長となって、数年間、記憶もないくらい必死に仕事して、社員5人を食べさせている39歳なんだけど、そういった風格は映像化された架からは感じられなかった。

その一方で、「真美に振られて半年以上引きずり続け、最終的に復縁する」人物像としては、小説よりも断然納得感があった。
原作を読んだ時、架くんはもうちょっと典型的なモテハイスぺ男性に私には感じられたので、「彼女が何も言わずに姿を消し、俺を何週間も無視し続けている理由は、俺が彼女に70点をつけたと聞いたせいである可能性が高い」と知った時点で、彼女を忘れるために別の女性に走るか、恋愛を遠ざけて仕事の鬼になるか、二つに一つだと思えた。

でも映像として見た架くんは、「あー彼なら、半年くらい未練たらしく待つかもなあ」と感じられて、原作で唯一しっくりこなかったラストが私の中でキレイに繋がった感があった。

ちなみに、このラストに復縁する原作共通の違和感を、小説を読了した女遊びしまくり億り人経営者氏に伝えたら、「俺も1度読んだ時違和感しかなかったけど、2度読んで納得した。だって、ピュアじゃん。めちゃくちゃピュアじゃん、架。女の小芝居信じて、周囲に目を覚ませって言われてもまだ信じてる男だよ?」って言ってて、なるほどって思いました。

架くんの女友達がイメージ通りで良かった。

女優さんのお2人とも、良いお仕事をされていると感じました。

「私たちは架と同等の女で、あんたとは生きる階層が違うのよ」
とわからしめたくてたまらない美奈子(cast桜庭ななみ)。
勝ち組女性として登場しているけど、(原作では)架のような恋愛感情を持てる男性からは選ばれず、腐れ縁の同僚と結婚。都内のバリキャリでありながら、学生時代(15年以上昔)からの交友に未だに人生のウエイトがありそうで、パット見ほどキラキラ生きてなさそうだと思うのはひねくれすぎだろうか。

そうであるならば余計に、真実へのあたりの強さも理解しやすい。自分の気を晴らすための攻撃を「架のためでもある」と自己正当化する、自称「イケてる女」。高い自己評価と優生思想に生きる女性として、とても上手に映像化されていた。

モテ属性の夫に、「美奈子が結婚本気度70%を70点に変換して真実に伝えたこと、もし夫さんが架の立場だったらどうした?」と聞いたら、「自分だったら、ヤバい友達を持ってたんだな、と自分の過ちを受け止める」と言ってて、面白かった。

そもそも夫は、恋人以外の女性に「自分にも所有権がある」と勘違いさせるような仲の深め方はしないだろうけど。たとえ体の関係になったとしても(!)、女性側が「私が嫉妬するのはお門違いだ」と分別すると思う。そうならないところも、人が良く鈍感な架ならではなのかもしれない。

…こんな散々なコメントしつつ、私は真実ちゃんよりは彼女たちのほうが少しだけ好きかも、って思いました。一番自分を重ねられたのは、原作の真実のお姉ちゃんの希美さんですが。

脚本がドラマ「最愛」の方なのが個人的に嬉しかった

あの原作を2時間でどうおさめるのか、原作ファンが満足する脚本に仕上げるのは無理なのでは?と思っていたけど、清水友佳子さん、押さえるべきポイントをしっかりガッチリ押さえていらしたと思う。
私は素人だから当然だけど、私が原作を読んでここが魅力だよなと思ったところをどうまとめるか考えてもどうにもならなくて、完全にお手上げだったので、そっか、精神が一緒であれば、ここまでオリジナルな表現をしても成り立つのだな、なるほど、と思える部分が数あった。

ただ、二人目のお見合い相手は、尺の問題で仕方なかったと理解しているけど、原作通り「口下手が過ぎるASD系善人」が良かった。仲人として、数多いる婚活男性の中で、原作のあの2タイプをピックアップしたことこそが秀逸だと感じていて、あの2人であることが、真実の傲慢さ善良さを最大限色鮮やかに見せていたと思う。わかりやすくアカン人を当てがったから、ぼやけちゃったように思えた。

小野里さんは田中裕子さんみたいな役者さんが良かった

小野里さんの台詞は、地方の頭でっかちで古臭い化石のような仲人ではないからこそ活きると思えていて、物腰に品があり、腹が据わっていてしたたかで、かつ、達観している女性を演じられる人に相応しい役どころに思えた。

原作ではね、マッチングアプリの存在を架から知らされて、その説明を少女のような顔で聞き、「いいわね。本当に便利☆」といった柔軟な感想を抱ける女性なのです。
そんな小野里さんのキラキラした目と、動く姿を観たかった。

最後に。「傲慢と善良」を読んだ仲人としての所感

周囲の人が何となく決めた「可動域」の中で、近しい他人から程度の差こそあれ支配や影響を受けながら、望まれたり、適性があったり、ストレス少なくできることを特段の思い入れなく選択して生きていく。そのことにさしたる違和感を持たない。

流れに逆らわずに生きてきて、そのほうが楽だし、そこまでの窮屈さもなかった、という人も少なくないように思えている。

それは、順応性が高いと言えるのかもしれない。
与えられたところで咲く。
そういった人がマジョリティだからこそ、日本の社会は(他国と比べたら)平和なのではとも思う。

批判を恐れずに言えば、自我の強さは生まれながらに決まっている特性のようなもので、働きアリの法則(サボっているアリだけをひとまとめにすると働くアリが出現する)しかり、自分がある人・ない人がいるのも、生態系の「見えざる大きな力」の仕業であり、個人に原因をみるようなものではないのかもしれない。毒親と称して差し支えないであろう親の元ですら兄弟姉妹で大きな差があるのだし。

けれど、言葉が強く能力がある一部の先人の努力によって「新たな自由」は得られてしまった。私たちは強い力に流されるままに、「自分で選んで自分で決めなければならない責任」を負ってしまったのだ。

絶対嫌なことを強要されるのが一番不幸なことだとしたら、それに次ぐ不幸は、気が向かないものを押し付けられることではなく、気が向かないものを自分で選ぶことなのかもしれない。実際、私は仲人として何度か言われてきた。

「さかなさんに、『この人がいいよ』って言ってもらいたいんです。そう言われたら、腹を括れるんです。これ以上の人はいないってわかってるんです、でも、背中を押してもらえなければ、決められないんです」

そうお願いされた時、私はテコでも言わなかった。
それが彼女たちの幸せのために私が取るべき行動だったのかは、確信を持てずじまいでいる。

誰かのせいにしにくいから、とはまた違った理由で、おそらく本能的な部分で、手に届く範囲の中から「自分で決める」ことがどうしてもできない人たちがいて、その中の何割かは、他人に決めてもらえさえすれば、幸せになれたりもするのだろう。

とある知人が言っていた。

「昔は好きでもない人と結婚させられたけど、そのうちの半数くらいは、なんだかんだ、悪くはない人生だったと思って終わっていってる。人間は順応できるんだから、恋愛が得意でもない人が結婚相手を”自分で選ばなきゃいけない”時代は終わらせても良いんじゃないか。どうしても無理だと思ったら離婚すれば良いんだし」

この「そのうちの半数くらいは」のソースが私にはわからないし、現実問題、子供のことを考えると簡単に賛同はできないけど、なるほど、そういう考え方もあるのか、とは思った。一定の年齢まで独身だった場合に、国や自治体がそれなりの権限と責任を持って、結婚相手を見つけてあげる。国の繁栄のために、結婚を”強めに推奨”する。昔のお節介おばさんの役目を国に担わせる。
…そんな社会を地獄にしか思えない人もそこそこいると思うので、「もしくは移民の大量受け入れ、どちらか一つを選ばなければ未来がない」くらいに日本が追い込まれた時にしかテーブルに載せられない議案だろうけれど。

高慢と偏見の貴族時代とは全く違う、無差別級恋愛バトル下の現代の婚活市場。そうでありながら、私たちの心の中に「階級・体裁」意識はしっかり根付いていて、家柄や生育環境だったり、学歴や年収だったり、容姿やコミュ力だったり、私たちは多角的に「自分との釣り合い」を考えながら異性を探し求めている。

小野寺さんは、上記の価値観で人を採点し見切る行為を「傲慢」と称し、誰かから与えられた「正解」を自分の正解および他人の正解として、自由とその責任を持てあます人たちを「善良」と称した。(と私は解釈した)

私は現実に仲人なので、小野寺さんの言う「傲慢で善良な人たち」がどうしたら前向きな気持ちで、自ら選んだ相手と結婚できるかを考える。

謙虚で善良になるか、傲慢で邪悪になるか。

どちらでも、納得いく結婚はできると思うけど、どちらにしても、まずは自己理解に励むしかない。

そして、自己理解を深めるためには、他人を知る必要がある。「他人“たち“と自分の違い」を意識することでしかわからない自分の立ち位置・傾向が、かなりあるのが実際だから。

自分を良く知って、自分とは違う他人を良く知る。

真実が全く違う環境に投じたことで、男性とこれまでとは違った関わり方ができるようになったように、異性を”人として好きになれない”人は、異性と人として深く関われる場に身を置くなど、「好きになれそうな試み」をしてみるのも有効だと思います。

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