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紫式部はウンコをした後、何でお尻を拭いたのか?

紫式部は、藤原道長の愛人だったと云われていますね。

ある日、道長は紫式部に、「何か欲しいものはないか?」と尋ねました。(想像です)

現代なら、彼女のバースデイプレゼントに「何が欲しいの?」と尋ねるようなものです。
そしたら、紫式部はこう答えました。

「紙を・・・ください」

平安時代の権力者で大金持ちの道長に、欲しいものは?と尋ねられ、答えたものが宝石でもブランドの時計でもバッグでもなく・・紫式部が一番欲しいもの。

それは「紙」でした。

紫式部が、この時欲しがった紙とは、今で言うところの『原稿用紙』です。それほど、当時『紙』は貴重で高価だったと言う事です。


さて、そこで問題です。

平安時代、紫式部は大便をした後、何でお尻を拭いたのでしょうか?

平安時代、もちろんトイレットペーパーは無く、紫式部といえども、そんな貴重な紙で拭くわけにはいきません。

ご存知の方も多いと思いますが、知らない方は、ぜひお考えください。

ネットで調べれば答えが出てくるかもしれませんが、推理を楽しんでください。(答えは最後にあります)

ヒント・・・・・平安時代の屋敷には便所のような個室は無く、貴族達は、「ひばこ」と呼ばれる『おまる』で用を足していました。

用が済むと召使いが川へ捨てに行きました。
そして、この「ひばこ」が屋敷の所々に置かれていました。

ところで、紙はいつ頃日本に伝わったのでしょうか?

ついでに、ちょっと歴史のおさらい。

紙の歴史
1957年、中国の西安市郊外の遺跡から紀元前141年以前の紙が発見されました。

この紙は発見された地名をとって「はきょう紙」と名付けられました。
しかし、まだ文字が書けるほどの紙ではなく、麻布と同じように銅鏡などの貴重品を包むのに使われていたと考えられています。

この頃の中国では、書写材料として木簡や竹簡、絹などが使われていました。
木簡や竹簡は軽便で手に入れやすいのですが、かさばって保存に適さず、また、絹は高価で大量に使うことができませんでした。

後漢時代(25年~220年)の皇帝、和帝は、宮中の御用品製造所の長官だった蔡倫(さいりん)に“かさばらず費用のかからない書写材料”の研究を命じました。

紙に着目した蔡倫は研究を重ね、ついに105年、書写材料に適した紙を完成させます。これが情報を書きこめる機能をもつ、歴史上初めての紙「蔡侯紙(さいこうし)」です。

日本へ正式に紙の製造法が伝わったのは、610年(高句麗から)とされています。
しかし、紙そのものは、製造法が伝わる以前に、日本へ入ってきたと考えられています。

奈良時代に日本に伝えられた紙は、改良を加えられ、より完成度の高い紙へと発展します。日本で製造された最古の紙は奈良の正倉院にあります。

日本で最初に紙の需要が高まった一番の理由は、仏教を広めるためだとされています。
写経の書写材料として用いるために、より完成度も高まりました。
最初は写経だけに使われていた紙ですが、平安時代になると貴族の間で行われた和歌、漢文、書などに用いられます。質のよくない紙は衰えて、雁皮紙の利用が広まってきました。


その頃、京都には「紙屋院(かみやいん)」という官立の製紙工場が建てられました。京都市の町名「紙屋町」は、その名残だと思われます。

鎌倉、室町時代にも紙は発達していくのですが、まだ一般の人には手の届かないものでした。
紙が貴重で高価な時代はしばらく続きます。


さて、先ほどのクイズですが、

正解は『手で拭った』です。

平安時代の貴族達は、紙や布を使わず、ある程度綺麗になるまで数回、手で拭って(本人又は召使いが)、手を洗ってを繰り返したのだということらしいです。(使用人がその都度、手水鉢を用意したと思われます)

余談ですが、当時の食事は野菜中心で、現代人よりはるかに多くの植物繊維を摂っていました。

よって便は鹿などの草食動物のようにコロコロウンコに近いもので、今ほど肛門を汚さなかったと想像できます。

トイレのことを現代でも『お手洗い』というのは、そのことに由来しているかどうかは定かではありません(笑)


和文化デザイン思考講師 成願義夫

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成願 義夫(ジョウガン ヨシオ)
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