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今日読んだ本19/05/13 『斜線』ロジェ・カイヨワ

カイヨワは『遊びと人間』で知って、バタイユとの関わりもあったことから割と好きなのですがあんまり読んでいませんでした。
『斜線』はカイヨワが得意とする「対角線の科学」を用いた論考を何篇かまとめています。「対角線の科学」とは、自然科学が物理・地質・生物など学問分野ごとに枝分かれしてそれぞれ独立に伸びていくのに対し、分野にまたがった普遍的な原理を見出すためにそれを横断する「対角線」を引こうという営みです。
個人的にはアナロジーと言い換えても初歩的に理解するうえではそこまで不都合がないと思っています。こういった思考法はとても好きなので、比較的薄い本でそのエッセンスが見られるならと『斜線』を手に取りました。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062922096/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_FTt2Cb58YFBKT

この本の素晴らしいところはやはりカイヨワの知に対する飽くなき探求とその誠実さがにじみ出ているところでしょう。何度も出てくるカイヨワの名言がそれを象徴しています。

宇宙は解き難く錯綜している……しかしそれは解きほぐされうるものだということに賭けなければならない。さもなければ、思考というものはいかなる意味ももたない……

カイヨワの生きた20世紀はまさに、科学が進歩したことで却って宇宙の錯綜がより重く人類にのしかかってきた世紀ではないでしょうか。そんな時代にあって、カイヨワは現実を超えた観念へと知的に至ろうとするシュールレアリズムに一度接近します。カイヨワは詩人だったのです。
しかし、詩の至高性を担保するうえで、(科学的)検証は不可欠であると考え、それから特権的に逃れようとするシュールレアリズムと決別します。
そしてカイヨワは科学者として、知性の目をもって世界を解きほぐしにかかるのです。

特に面白かった話をいくつか。
まず第一部「循環的時間、直線的時間」より。東洋の世界観は基本的に循環的で、世界は生まれ、滅び、新たに生まれます。シヴァ神などがそれを象徴します。
一方で西洋の世界観は直線的で、そうでなければイエスは繰り返し処刑されたことになってしまいます。
ただし循環的な見方が一切なかったかというとそんなことはなく、むしろその周期も含め盛んに議論されたそうです。そしてそれが何に由来するかというと、星の運行なのです。
そもそも古代において時間を我々に教えてくれるものは天体のみでした。太陽が日と年を、月が月を刻みます。そして、その他の星も同様に時間を教えてくれるはずです。
だとしたら、あらゆる星々がある時点と全く同様の位置に戻るとき、世界は全く同じ状態になっているのではないか。こうして天文学者たちは、その「大年」とも呼べる周期を計算します。この「あらゆる星」に何を含むかという点でさまざまな議論があったようです。
また、一周して世界が全く同じ状態になった時の同一性についても立場がいくつかあります。厳密に全く同じ状態になる説と、似たような人物が似たようなふるまいをするという説と、種のレベルで同一であるに過ぎないという説です。
こうした議論に、人間の探究心とロマンを感じずにいられませんでした。

次に、第二部「月からの石」について。
この章でカイヨワはロマンがないことを言い出します。石としては隕石の方が遠くから来ててすごいし、人類が取ってきたということを強調したいなら石よりも取ってきた機材を展示すべきだ、といった旨です。
つまらんこと書くなーと思ったら、途中から一気に詩人になり、灰色の石が目の前にあってもなお衰えない月の魅力を賛美します。
最後の文中の一節は見事です。

ただの染みのようなものではあるが、薄ぼんやりとした闇の中でちょうど必要なだけの程よい大きさをもった月

たしかに、あまりにも、月は程よい大きさで、光を零します。何度も反芻したい一節です。

他にも、美術館に展示された聖母はその聖性ゆえに美術館の中では拝む対象になり得ないという話や、空想科学小説がおとぎ話、幻想怪奇譚に次ぐ系譜にあるという話など、非常に魅力的で示唆に富んだ内容でした。

1975年に書かれたにもかかわらず、今日でもハッとさせられるような科学に対する洞察が知の巨人の大きすぎる歩幅を思わせます。この肩に乗れる心強さも同時に感じました。

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