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現代のタタリ神についてのメモ

肩こりがやばくてマッサージ行こうと思っていたら臨時休業で満身創痍すぎて眠れない夜には最近の悩み、ほどでもないモヤモヤを書き記すのに最適な夜だと思うので筆を(指を)走らせる。

例えば、事実ではないがある事実とある事実の組み合わせであり得る話がある。

とある人がいたとする、名前はなんでもいいのでX氏と呼ぼう。
X氏は職を転々としている、真面目なのだがなぜか続かない。その理由を彼は語りたがらない。

ある時、X氏は私が運営するコミュニティにやってきた。このコミュニティは社会に居場所のない人の居場所を作ることを理念にやっているところだ。なので、傷ついた人や寂しい人なども積極的に受け入れてきている。
たまに面倒な人も来るが、メンバーに恵まれたおかげで和気藹々とした場になっている。

X氏にとっても、ここは居心地がいいみたいだった。たまに顔を出しては雑談して帰っていく。やがて、多少の冗談も言える関係くらいにはなってきた。

そんなある日、X氏の母親を名乗る人物が、ものすごい剣幕で怒鳴り込んできた。
曰く「息子に変なことを吹き込むな」
曰く「この場は悪魔に呪われている」
曰く「2度ど息子を呼ぶんじゃない」

勘違いも甚だしく、私は冷静にX氏の母親を名乗る人物をなだめるように傾聴した。しかし怒りのボルテージは下がることもなく、怒鳴り続けていた。
私は仕方なく警察を呼んだ。警察が事情を聞いている時、運悪くX氏が訪れた。その時の彼の顔は、驚き、怒り、失望、悲しみ、そういった感情が一挙に噴き出たなんとも言い難い表情だった。

X氏は私たちに謝罪をした。
そして母親を名乗る人物、彼女は実際に母親だった、の手を持って去っていった。私は彼に「今日のことは気にしなくていい、またいつでも来てもいい」とLINEを送った。しかしそれは既読になることはなかった。
ダメ元でメールも送ってみたり、電話をかけてみたりもしたが、返事はなく、電話は2度目には着信すらしなくなっていた。

そこからしばらくの間、私はコミュニティの人たちのケアで忙しかった。ある日急に怒鳴り込んでこられたのがこたえた人がたくさんいた。
あらぬ噂も飛び交い、火消しに駆け回った。大変ではあったが、居場所のない人の居場所をするとはこういうことだと思った。

ただ、同時にX氏が来ないことにほっとしている自分もいた。いや、正確にはX氏が来ることで怒鳴り込んで来る母親が来ないことにほっとしていた。

後にX氏の仕事が続かないの母親のせいだと、同じような活動をする知人から聞いて知った。職場に怒鳴り込んで来るらしい。言ってくる内容も私の聞いたものと概ね同じであった。
本人はいたって真面目で、ごく普通の青年であった。何もなければ今頃、普通の仕事を普通にして、普通の悩みを抱えて普通に幸せに暮らせるであろう。時たま、ブロックされていたLINEをまだブロックされているか確認しながらX氏のことを思った。

やがて月日は経ち、あまりX氏のことも思い出さなくなった頃。ニュースで彼の名前を見た。
「40代無職の息子が母親を刺殺」
スマホを持つ手が震えた。アプリのニュースでは変わり果てたX氏の写真が載っていた。追い詰められ、絶望と額に書かれたような顔。

私に何ができたのだろうか。
人は孤独の果てに道を違える。
孤独の中の選択は、より深い孤独を生むのだ。
その負のサイクルを止めるための居場所なのではなかったのか。
本当に手を差し伸べるべきはX氏のような人ではなかったのか。

悶々とした日々を過ごした。
ある日のことだった、事件から2ヶ月が過ぎた頃に唐突にX氏からメールが届いた。

内容は、謝罪と告白であった。
メールは事件の前に送信予約されたものだった。私が事件の関係者と思われないように、新しいフリーメールを作って送られたものだった。

メールによると、X氏が孤独であった以上に母親もまた孤独であった。早くに夫を事故で亡くし、女手ひとつでX氏を育てた母親。
しかし孤独の隙間はやがて、カルト宗教が埋めるようになっていった。

入信したての頃の信者は優しかった。
その優しさに母は狂ったのだった。X氏はメールの中で、母を思って覚悟を決めたと語っていた。
もうどうしようもないのである、と。
誰かが母親の孤独を埋めねばならないが、それはカルト宗教ではないのだ、と。だが、代わりにその孤独と攻撃的な態度を受け入れてくれる場所がなかった。
もしかしたら、私のコミュニティがそうかもしれない。
そう思った矢先の事件であった。私が良くても、その場にいる他の人たちが耐えられない。あの日のX氏の絶望は、母の居場所はこの世にないことを知った絶望であった。

自分の孤独は耐えられる。
だが、大切な人の孤独は耐え難い。
耐え難くて、X氏は孤独を解消する最後の手段をとってしまった。

X氏はメールの中で語る。
もし明日、母親を刺さなければ、自分の殺意はもっと違うところに向かうかもしれない。それは私やコミュニティの人たち、もしくは見知らぬ通行人かもしれない。
それが怖いのだ、と。

私は目の前が真っ暗になるのを必死に耐えながら、真っ白になった頭を一生懸命働かせた。
何度も浮かぶ
「どうすればよかったのか」
自問自答を繰り返していた。

と、まぁ幸か不幸か作り話であるのですが、、、割とリアルに起こり得るのではないかと内心震えている話でもあります。
内容は3割経験談(ただし複数のケースが混ざっている)で残りはニュースとかでみた話たちのキメラです(大部分はあの事件の犯人)。

私はこういう、
不特定多数に刃を向けることになった世界線のX氏
のような人を
現代のタタリ神
と呼んでいます。

そう、もう、どうしようもないのです。
タタリ神になってしまったら。

その怒りや悲しみは誰かの犠牲と引き換えにしなければ収まらないのです。未来永劫、祀る祠が必要なのです。
問題はその数が、増え続けた時にあります。

最近の僕の課題感はここにあります。
タタリ神、増えてない?やばくない?

増えているのが気のせいならいいんですが、どうにも世の中孤独な人を追い詰めがちな形をしている気がしていて。みんな大好きコミュニティやら居場所やら、本当に孤独の解消してるのかな、と。
や、してるかもしれないし、してるなら全然いいんですが、本当かいなと気になるのです。

もやもやを書いているから解決策もオチもない話なのですが、しばらくの間はちょっとタタリ神をどう奉るといいか考えてみようと思います。
個人的には「虚無」や「無意味」にヒントがある気がしている次第です。また気が向いたらご報告します。

おやすみなさい。

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齋藤商店
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