抵抗勢力なき宮中祭祀簡略化──たったお一人で伝統を守り続けられる陛下。保守派はいつまで沈黙するつもりなのか?(2009年06月30日)
(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)
当メルマガにお寄せいただいたコメントのなかに、「なぜ官僚はロクでもないことばかりするのか?」という書き込みがありました。今日はそのことで私が思うことを少し書いてみます。
繰り返し申し上げてきたように、ご高齢で療養中の陛下にとって、ご公務のご負担軽減は急務です。ところがご日程の件数はいっこうに減らず、祭祀ばかりが標的にされています。御代拝の慣習は反故(ほご)にされ、伝統を破る祭祀の簡略化が進められています。
宮内官僚らがこれらを「ロクでもないこと」とみずから認識したうえで推進しているのか、といえば、そうではない、と私は考えています。むしろ官僚として有能であるがゆえに、確信的に「ロクでもない」簡略化を進めるのであり、これは官僚としての悲しいサガなのでしょう。それだけ根が深い、一筋縄ではいかない問題なのだと考えています。
拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』に書いたように、昭和の祭祀簡略化は入江相政侍従長の俗物性に始まり、富田朝彦長官の無神論によって本格化した、というのが私の見方ですが、平成の祭祀簡略化の推進力は、これらに続く官僚的先例主義です。
問題は、法と先例にしばられ、暴走する官僚たちをコントロールする力が働かないことです。そもそも天皇の祭祀の本質について社会的な理解が乏しいなかで、簡略化に反対する抵抗勢力が見当たらないことです。
だからこそ、私は読者の皆さんに、私と問題意識を共有し、これではいけない、と思うなら、声を上げてください、と呼びかけているのです。
▽1 前侍従長の講演に感激
前々回から、簡略化推進の張本人としての渡邉允(わたなべ・まこと)前侍従長について取り上げてきましたが、前侍従長ご本人が「私も在任中、ご負担の軽減を何度もお勧めしました」と、雑誌「諸君!」昨年(2008年)7月号のインタビューで語っているところからすれば、簡略化推進の張本人は「私も」であって、「私だけ」ではないのかもしれません。
ある程度、組織的な勢力の存在さえ想像させますが、一方、これに対する対抗する勢力は見えてきません。いや、現実は対抗どころではありません。
インタビューを載せたこの雑誌もそうでしょうが、前侍従長の告白はけっして反天皇論者たちの媒体で行われているわけではありません。読者の多くは宮中祭祀への理解が浅くないはずですが、簡略化への異議申し立ては聞こえてきません。
たとえば、すでにお話ししたように、今月上旬、伊勢神宮のお膝元で神社関係者の集まりで前侍従長が講演し、そのなかで前侍従長は「祭祀簡略化を進言したのは私である」と内輪話をしたといいます。けれども、日々、神明に奉仕している祭祀の専門家たちから強い抗議の声が上がったのか、といえば、違います。
それどころか、曾祖父は宮内大臣、父親は昭和天皇のご学友という高貴な出自で、自分自身は東大法学部を卒業し、外務官僚としてのキャリアを積んだあと、宮内庁に入り、十年以上も侍従長として陛下のおそばに仕えた華麗な経歴の持ち主ならではの講演に、聴衆は感激したと聞きます。
▽2 保守派の運動団体が載せた告白
前侍従長の告白はこれが最初ではありません。私が知るところでは5年前、平成15年の暮れに行われた雑誌インタビューです。
「昭和天皇が今上陛下の御歳のころは、冬の寒いときや夏の暑いときには旬祭はなさらず、掌典長がご代拝を勤めていました。陛下のご負担を思うと、そうしていただいた方がよいかと思うこともありますが、陛下はなかなか『うん』とはおっしゃいません」(渡邉『平成の皇室』所収)
まえにも書きましたから、このインタビュー記事が肝心な点に言及していないことに、このメルマガの読者はすぐに気づかれるはずです。昭和天皇の時代の祭祀簡略化はご健康問題が契機ではなかったし、側近である侍従による御代拝ではなく、掌典長による御代拝がそもそも祭祀の伝統破壊でした。
ところがです。このインタビューが載ったのは保守派の運動団体の媒体でした。タイトルは「国民と共にある皇室」。国民一人一人に心を寄せられる両陛下の日常を紹介し、「国民の幸せを願われ、具体的なかたちに現れたのが宮中祭祀である」とまで述べ、祭祀への理解を示している記事です。
そのような記事にさりげなく盛り込まれた簡略化進言の告白に、目をとめ、違和感を感じた読者はごくごくまれだったでしょう。
やがてこの記事は、昨年(2008年)暮れ、一冊の本にまとめられました。本を出したのは、保守派の重鎮として誰もが知る人物が社長を務める出版社です。
▽2 思い出してほしい原教授の祭祀廃止論
祭祀の専門家たち、保守派の運動家たち、保守派の重鎮は、伝統を度外視した宮中祭祀の簡略化に賛成しているのでしょうか。
けっしてそうではないでしょう。むしろ逆だと思います。しかし、結果として、簡略化推進派に取り込まれている、ということはいえるかもしれません。
渡邉前侍従長は「諸君!」のインタビューでみずから述べているように、祭祀の専門家ではありません。そのため「祭祀の専門家に相談に乗っていただいた」ようです。記事には神道学者の名前が実名で載っています。
この学者が祭祀簡略化の推進派かどうか、私は知りませんが、たぶんこれまた知らぬ間に利用されてしまっているのではないか、と私は想像します。それだけ有能な官僚たちは根回しが巧みだということなのだと思います。
祭祀の重要性を理解する保守派の抵抗がわき上がるどころか、逆に沈黙している、ということになれば、どうなるのでしょう。
ここで思い出していただきたいのが、当メルマガが昨年、延々と批判した原武史明治学院大学教授の宮中祭祀廃止論です。
教授の論文の重要ポイントの1つは、昭和天皇のご高齢を理由として祭祀の簡略化が始まった、という理解でした。簡略化に昭和天皇は言い難い不安を覚えていた。もっと熱心なのが現天皇だが、皇太子の時代はどうだろう。農耕儀礼は形骸化している。それならいっそ廃止してはどうか、と教授は論理を展開させていました。
昭和の時代の祭祀簡略化に関する教授の理解は、朝日新聞がスクープしたことで知られる卜部(うらべ)亮吾侍従の「日記」のようです。日記の冒頭にある岩井克己記者の「本巻解説」には、祭祀簡略化が「老い」の問題として説明されています。
原教授の祭祀廃止論は保守派の批判を浴びました。しかしどうでしょう、教授はいまや司馬遼太郎賞受賞研究者です。そして、祭祀廃止論の前提となっている、ご高齢を理由として昭和時代の祭祀簡略化が始まった、という誤ったドグマは独り歩きし、平成の祭祀簡略化の論拠となっているようです。
▽3 保守派がお墨付きを与える
天皇の祭祀の価値を理解する保守派の人々が、目の前で進行する祭祀簡略化に沈黙している、ということは、原教授の祭祀廃止論をきびしく批判しながら、その前提については容認することにならないでしょうか。
抗議の声が上がらないなら、うるさ型のお墨付きを得た、と宮内官僚たちが理解したとしても不思議はありません。天皇の祭祀の形骸化がさらに悪化することは確実でしょう。ことさらに祭祀廃止論など叫ばなくても、祭祀は空洞化していきます。
沈黙は金、どころではありません。私にはほくそ笑む祭祀廃止論者たちのしたり顔が見えます。
前侍従長によれば、祭祀簡略化の進言に陛下は「まともに取り合おうとはなさいませんでした」(「諸君!」インタビュー)。祭祀王としてのお立場を十分に自覚される陛下なら当然ですが、頼みとする人たちが沈黙するなか、陛下はたったお一人で祭祀の伝統を守ろうとされているかのようです。
読者の皆さんはこの状況をどう考えますか。これでもまだ沈黙を続けますか。オウンゴールを蹴り続け、不忠者を演じさせられていることに、いつになったら気づくのでしょうか?