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龍野から消えた伝説のビール職人 3 | A Trace : 助次郎、命がけの旅

(これまでのお話)
世は幕末・明治維新の時代へ突入した。
全てを失った横山助次郎と養母はお家再興と立身出世の志を立てて生きていた。少年時代の助次郎が志を立てるうえで深く影響を受けたのは、養母が心を込めて施した教育と、勢多氏の親身な鼓舞激励のおかげであった。

十五歳、龍野を去る

大壺屋時代の杜氏、勢多巳之助の持ってきた話の中で、助次郎が特に身を乗り出して聞いたのが、「甲州の十一屋という醸造家が珍しい西洋の酒の醸造を始めたようだ」という話題でした。

自身の家のルーツである酒造りの話題にはきっと殊更関心を寄せるものだったに違いありません。龍野の水で造った日本酒では競合に勝つことができないのは前回の投稿で述べた通りです。
それをきっと、助次郎もわかっていたことでしょう。

そして助次郎には何もなかった。だからこそ、日本人による洋酒の醸造というまったく新しい事業に、持たざる者として誰よりも早く、捨て身で飛び込んでいくことに躊躇がなかった。
むしろその情報は、分厚い雲の隙間から差し込む一筋の光に見えたのではないでしょうか。

十一屋店主・野口正章のこと、そして洋酒醸造という新しい技術に展望を見出した助次郎は、その現場へ飛び込むことを決意し、杜氏に紹介をお願いして、十一屋洋酒部門への奉公を願い出ます。
明治5年(1872年)助次郎、15歳のことです。
(ちなみにこの十一屋/野口正章が、ノルウェー系アメリカ人W.コープランドを醸造顧問に招聘して1874年に発売した「三ツ鱗印ビール」は、大阪の「渋谷ビール」に続く2番目の国産ビール、東日本では最初の国産ビールになります。)

「地ビールフェスト甲府」のサイトに野口正章の近影三ツ鱗ビールのラベルを見ることができます。そして大事なことが書かれている!!)

この時、ビールのことを勢多巳之助および助次郎が一体どのレベルまで把握していたのか?が気になるわけですが、そもそもビールの消費者である外国人が日本で暮らすようになったのはいつなのか、という問いになります。

1858年安政五カ国条約によって、函館、新潟、横濱、神戸、長崎の開港が決まり、龍野に最も近い兵庫の開港がなされたのが慶応3年(1868年)
明治3年(1870年)時点の神戸の外国人居留地の全体名義人は181名程度。
横浜では外国人が増え、同年にコープランドが横浜でスプリングヴァレー・ブルワリーを始めてはいるものの、多くの日本人、特に関西人にとっては、ビールはまだまだその味を知られることのない未知の飲み物であったと思われます。

福沢諭吉がビールを口にしており、『西洋衣食住』という本でビールを飲んだときの印象を彼はこう表現しています。キリンビールさんのサイトをご紹介します。

「其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」
→「メッチャ苦いけど、胸のつかえが取れるっていうか、開放的になって、いい感じ。人によって好き嫌い別れるみたいだけど、この苦い味がいい!といって飲む人も多い」
だいぶ砕けた感じで言うとこんなんでしょうか。

「これからは洋酒だ。きっと、洋酒の時代が来る」

助次郎は洋酒醸造という未知の技術に一筋の光を見出し、
巳之助と共に甲州へ旅立つ決意を固めます。
今でこそ、甲府に行くの?へぇ〜ぐらいの感覚ですが、
この時代、汽車すらありません。
丁稚奉公するために龍野から単身徒歩で甲州へ向かうのだという助次郎の大胆な決意を聞いて、周囲は15歳の健気さに驚かずにはいられなかったそうです。
そりゃそうです、ほとんどの市井の人はその一生を地元で過ごす時代です。まじで?って感じでしょう。
また、その道中の険しさを知るために、止めようとした人もいたそうです。
ひとつ気になるのは、親戚であり従兄の横山省三(24歳)は、弟分とも思える歳の差の助次郎のこの蛮勇とも思える決断を、どのように受け止めたのでしょうか?ちなみにこの年、醇が生まれています。省三一家と助次郎の交流を示す史料は、まだ見つかっていません。

さて。
助次郎の最も敬愛する養母はというと、彼の決意を快く承諾し、そして心から祝福したそうです。
如来寺にある横山一族の墓に出世を祈り、そして横町の屋敷跡での奮起を促した日々を思い返したことでしょう。
きっと誰よりもその将来を信じている助次郎の決意を万感の思いで受け止め、いつか来ると悟っていた別れの時がいま来たのだと、その背中を送り出したのでしょう。

旅の朝。出発は年の瀬が迫る冬の日でした。
「さあ、いよいよですね。
 行ってきなさい。けれど、決して振り返ってはいけませんよ。
 あなたの行く道は、龍野にはないのだから」

こんなことを言って送り出したかもしれませんね。
そして助次郎も、今生の別れになるかもしれない育ての母の姿を瞼に焼き付け、振り返りたい思いを堪えながら、されど心は新しい醸造技術と新天地への希望に燃えて、足取り勇ましく故郷を後にしたのでしょう。

少年は、すべてを賭けて旅に出た

———場面変わって、雪深い峠を進む2人の姿。

「吹き荒ぶ木枯らしに顔を刺され、息すら難しい。白く染まった山道は、人の足跡ひとつなく、ひたすら静まり返っていた。靴は雪に沈み、歩くたびに冷気が骨に染み込む。凍てつき震える手は開いたまま動かない。
耐え難い空腹と疲労が思考力を奪い、足取りはおぼつかない。
『これが旅というものか』——助次郎は初めて、自分の決断を悔いた。
『ここで止まったら、本当に死ぬぞ!』
巳之助の振り絞った声がかすかに聞こえる。
そうだ、ここで死ぬわけにいかない。
2人は、ただ意思の力のみで、歩みを進めていくしかなかった」

小説ならこんな感じでしょうか?(創作です)
助次郎さんと巳之助さんを待ち受けていたのは冬の木曽路の、極めて過酷な試練の旅路でした。
人っ気のない木曽山中で道に迷い、餓死しかけた
そうです。
数日間飲まず食わずで野宿をして、十一屋に到着したのは翌年正月半ば頃のことだったそうです。

この旅がどれだけ過酷で命懸けのものだったのかを、追体験してみたいと思います。

まず、交通事情の確認

🚂 日本最初の鉄道(新橋〜横浜間)が開通するのが明治5年(1872年)。
助次郎が旅立ったこの年は、鉄道はまだ龍野も甲府も通ってません。

鉄道なし(近代的な移動手段は未発達)
幹線道路なし(江戸時代の旧街道を利用)
橋も少なく、寒中に川渡りのリスクあり

江戸から明治になり、移動手段は大きく変わります。
ヘッドライト早期点灯研究所さん(なんじゃそら?!)のサイトに、移動手段についての記述を発見しました。

明治2年2月には諸道の関所が廃止され、次いで同4年9月、寄留旅行の鑑札制度も廃止となり、庶民の往来は全く自由となった。さらに同5年には、なが年にわたって、東海道を初め諸街道の輸送をになってきた伝馬所と助郷が廃止となり、これに代わって各駅陸運会社が当たることになった。

ヘッドライト早期点灯研究所

1.ルートを推測

龍野(兵庫県)➡ 甲府(山梨県)までの距離は、
現在のルートでも約500km
徒歩だけで移動するとすれば、最低でも 20日~30日 はかかったはずです。

  1. 山陽道(西国街道)東進(龍野~京都)

  2. 中山道 or 甲州街道 を経由し、甲府

https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=1tWScFgb2NbaPd5Fk2tYeL5__XAe-k2A&ll=35.39710717700678%2C136.45007311524228&z=9

📌 ポイント

  • 山陽道は比較的歩きやすいが、中山道・甲州街道に入ると峠越えが待ち構えている。

  • 木曽路(中山道)は標高800〜1,000m級の峠が連続し、特に冬場は地獄のような旅になる。

  • 甲州街道も難所が多く、雨や雪が降れば滑落の危険があった。

  • 道に迷う危険。

  • 廃藩置県後の混乱期の旅路は、狼や野盗の脅威に備えなければならない。


2. 飢えと寒さの戦い

📌 宿場町の間隔が広いため、食料が尽きれば命の危機

  • 冬は農村にも食料が少なく、おにぎり一つ手に入れるのも困難

  • 貧しい旅人は、「雪を舐めながら歩いた」記録もある


3. 野宿の苦しみ

📌 当時の旅人の多くは野宿を余儀なくされた

  • 宿場町で宿を取るにはお金が必要。

  • 冬の野宿は低体温症、凍死の危険を伴い、火を起こせなければ死ぬ

夜空を見上げると、満天の星が瞬いています。
『このまま朝を迎えられなかったら、どうなるんだろう』
ふと、養母の顔が浮かんだこともあったでしょう。
冬の中山道の妻籠宿を映した、いい感じのYouTubeがあったので転載します。

きっとこの光景を助次郎さんも見たはずですね。

雪に埋もれ、飢えと寒さに耐え、
死の恐怖と隣り合わせの命懸けの旅を踏破して、
助次郎は無事、甲府に到着。
十一屋の徒弟になることができました。
15歳の少年が、この危険な旅を徒歩でやり遂げる偉業を成し得たのは、意思と幸運の両方の力。

道中も、旅のあとも、凍てつく夜から明けの空、日が昇る富士山の姿を、少年助次郎はきっと何度も見たことでしょう。
この旅の経験は、きっと彼の人生を切り開く礎になったはずです。
助次郎さんの勇気、意思の強さ、運命を自ら切り開いていく力には、敬服するばかりですね。

次回、いよいよ助次郎の爆裂麦酒醸造人生が幕を開けます。

(つづく)

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参考文献:
福沢諭吉『西洋衣食住』慶應3年
横山包隆『父の俤』1932年
浜田徳太郎『大日本麦酒株式会社三十年史』大日本麦酒、1936年
高山謙治『麦酒読本』帝国出版協会、1936年
佐藤建次『日本ビア・ラベル盛衰史』東京書房社、1973年
『山梨てくてく Vol.12』山梨県広聴広報課、2018年

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さいたくま | studio l.o.a
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