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龍野から消えた伝説のビール職人 2 | A Trace : 名もなき醸造家の足跡を追う
ローカルヒストリーを追う「A Trace 痕跡の町 龍野」シリーズの連載はこちらにまとめていきます。
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立志伝であり日本麦酒産業発達沿革史。「父の俤」
横山助次郎という人物を知り得たのは、助次郎ご子息の包隆さんが一周忌記念の刊行物として執筆した「父の俤」という伝記の、コピーでした。
横山省三の孫、横山多佳子さんから見せていただいたものです。
僕が「父の俤」を読んで感じた印象と、その面白さはこんな感じです。
横山助次郎がどのような人生を送ったのかがとてもよくわかる
冒頭は横山家がどこからきたのか記述から始まっており、この当時横山家が自らの一族をどのように認識していたのかがわかって興味深い
史料に残っていない、当事者しか知り得ない情報がかなりある
言葉の節々が亡き父への敬意に満ちており、また息子の目線を通して助次郎の人柄が伝わるようだった
助次郎が辿った人生が波乱に満ちており、苦境に立たされても、失敗しても諦めない姿勢が胸を打つ
醸造家としての助次郎は利益に恬淡で、技術に関してはライバルになり得る同業者にも常に出し惜しみせず教えていたため、その姿勢と人柄は多くの醸造家から尊敬を集めていた
日本のビール揺籃期の様子がよくわかり、また助次郎の人生を通して日本ビール史の夜明けの様子が読み取れる
最後は内助の功として妻(包隆にとっては母)の献身に触れているのが、なんか尊い
包隆さんの序文が大変わかりやすく、なぜ彼が一周忌にこれを書き残し、出版したのかがわかります。まるで包隆さんが語りかけてくれるようでとてもいいので、原文を一緒に読んでいただきたくなりました。引用します。
自序
茲(ここ)に亡父の一周忌を迎えるに方り(あたり)まして、その七十有四年の全生涯を静かに追想いたしまするに、父が幼にして父母を喪ひ天涯孤獨の悲境に辛酸を嘗めつゞ、漸く物心つく少年時代に入るや奮然として生家復興の壯志を抱き、單身郷關(きょうかん)を去つて以来の努力奮闘振りこそは、私共後人にとつての尊き数訓と感化であり正に一篇の立志傳を思はしめるのであります。
珠にその敬虔なる精神生活に基礎づけられた事業への精進振りは、私共事業界に活躍せんとする人々への良き暗示ともなり、他の取つて以って他山の石とするに足らんかと思惟するのであります。
この小傳(伝)が幸にして私共家人にとり善き紀念物として、修身齋家(しゅうしんせいか)の活教訓ともならば地下の霊も亦大に多とするでありませう。更にこの小博に録する所の事実が、世人に何等かの齎す(きたす)ところありとしますならば、私の最も光榮とするところであります。
元來この小傳に輯録(しゅうろく)するところのものは、主として生前に父が語り残したる事實を綜合して、之れに多少の考證を加えたものでありまして、その大部分が洋酒事業に関聯(かんれん)して居る意味にをきまして、單に之れを父の小傳として見るのみでなく、恰も(あたかも)我國洋酒業發達の沿革史として観ることも出来るのであります。
助次郎さんが語ってくれた事実を合わせて考証を加えたものだ、と書いてありますね。続けます。
我國に明治の初葉洋酒なるものが出現して以来未だ一世紀を出でないにも係らず、今日の異常なる發達普及振りを見ますることは、私共斯業(しぎょう)に身を列する者にとりまして愉快に堪えないのであります、
それにつけても幾多の先輩長老の遺徳に對し(対し)、満腔の敬意と感謝を捧げたいと思ふものであります。業界に於ける先覚者功労者と稱すべき人々の多き中に敢えてわが父の名を数えんとすることは、いささか潜越の感なきにしもあらずですが、實際父の如くに明治、大正、昭和を通じて約六十年の長きに亘り、一意専念洋酒業に心身を傾倒し盡した(つくした)者は殆んど他に比を見ないところで、しかも其事業に對する熱烈なる苦辛經營振りに至りましては、恰も(あたかも)全生命をこれに投するが如き観あらしめ、父の生活と洋酒とは密接不離のものでありました。そうした意味に於て父の小傳は全く國産洋酒發達の側面史として、相當に重要なる参考資料たるべきを信ずる次第であります。
併しながら今茲に之れを上梓して、敢えて故舊(こきゅう)知己に贈呈せんとするに際しまして、その内容の無難にして章句亦甚だ整はざるものあるを見、いささか汗顔に堪えないものがありますが、幸にしてその記述せる所に大なる過誤なく多少にても故人の俤を髣髴せしむるものがあり、赤洋酒發祥以来の事蹟を明瞭ならしむることを得ますれば、私の光榮は勿論地下の父も亦莞爾(かんじ)として之れを欣ぶ(よろこぶ)であらうかと思います。
昭和六年十一月
一周忌法會(ほうえ)を營むの日
横山包隆識
読んでると日本語の勉強になりますね。
「莞爾」とは、「喜んでにっこり笑う」ことだそうです。
また、見開き最初に、「この小冊子は亡父の一周忌記念として昨冬刊行予定だったところ、校訂印刷に意外の時日を要し時機を失したのですが、その代わり各方面の助言と資料が集まって、故人を偲ぶに足るいいものが出来上がった次第であります」と大まかにそういった趣旨のことが書いてありました。
ちょっとなんか照れてそうなのが好いですね。
横山の一族
A Tribe called YOKOYAMA
僕が面白いと思った最初の部分は、横山家の人々が自分たちのルーツをどこだと認識しているのかといった点です。
全てが事実かどうかは客観的に確かめていくしかありませんし、現在そこまで僕は追えてないのですが、彼らが一族の中でそう言い伝えられてきたというのが、文書で残っているのはとても大事だと思っています。
あと、僕はアカデミックな研究者ではありませんので、ガチの歴史研究の方は色々大目に見て下さい。
むしろ助けてください。一緒に研究しましょうよ。
「父の俤」の最初の部分はこう始まります。
わが横山家は人皇三十一代敏達天皇の裔 橘左近衛中将武蔵守に出で、中葉源頼朝が関東に於いて源氏復興の壮図を敢行せんとするや、わが祖橘義範の子経兼一族郎党を引具して傘下に馳せ、大いに武勲を輝かして頼朝の偉業を助けたので、功にやって正四位下大和守に任ぜられ武蔵国久島郡横山庄を賜い、爾来姓を横山と称するに至った。 其の後一族は諸国に繁栄して代々武を以て立ったが中に、横山左馬助義信の代に至り、主家豊臣氏の滅亡に殉じて野に下ることになり、その子孫は播州龍野に住みて酒造業を営んだが、屋号を大壺屋と称し銘酒大丸の醸造元として、明治維新前後迄は勢威遠近に響く名家として謳われた。父助次郎は實にこの大壺屋の一粒種として、安政四年1月龍野に呱々の聲を挙げたのであった。
源頼朝の時代の話、武蔵国だと横山党のこと…?って感じですが今大事なことではないので今は深追いしません。
龍野の人たちは、龍野で酒醤油醸造を始めた赤松の家臣4つの家があることをよく知っています。
そのうちの一つが横山で、横山家は今の新宮町善定村から龍野にやってきたと言われています。
龍野は現在醤油産業で有名ですが、元々は酒造りの方が盛んでした。
酒造りが廃れ、醤油造りが栄えた理由は、揖保川の伏流水である龍野の水がカルシウムや鉄分の少ない軟水で、酒酵母を育てる栄養が少なく、お酒が腐りやすかったためだとされています。
せっかくなので、姫路の日本酒「龍力」の本田商店5代目蔵元本田龍祐さんがその説明をされているnoteを引用させていただきます。
助次郎、生まれる
話を戻すと、
助次郎の家は酒造りの家の横山=大壺屋だったわけですね。
横山省三と醇は醤油造りの横山=壺屋の家系です。
その大壺屋の一粒種として産声を上げた助次郎。
(助次郎という名前から、もしかすると長男もいたが喪ってしまったのではないか、という余計な深読みをしてしまいますが…)
助次郎さんが生まれたのは安政4年(1857年)。
時代感を掴んでいただきやすいように分かりやすくお伝えすると、
まだ江戸時代です。
1857年は吉田松陰が松下村塾を開塾した年です。
ペリーの黒船来航が4年前に起こっています。
このとき、ペリーの艦上でビールが振舞われた記録が残っています。
ここに居合わせた蘭学者の川本幸民が自宅でビールを試醸、浅草曹源寺で盛大な試飲会が行われたとのこと。
さて、話を龍野に戻しましょう。
今も龍野の如来寺を訪へば横山家累代の墓域を存して居り、亦(また)父が少年の頃には同町横町一帯に跨る宏壮なる邸宅も保存され、往時の栄華を偲ばしるものがあつたが、父が生まれた頃よりさすがの大壺屋も衰運に見舞われ漸く祖父に依ってその頽勢(たいせい)を支へられてゐたのであつたが、父が四歳の時祖父が病歿したため遂に生家は倒潰の悲境に陥り、生母も亦已むなく家を去つて他に再婚したので幼き父は一朝にして父母を失い家産を失ふの不幸に遭遇したのである。
いきなり大壺屋が潰れてしまいました。
助次郎さん、なんと4歳で一家離散の悲運を背負ってしまいます。
現在、4歳の娘を持つ身としては非常に身につまされるものがあります…、お母さんも、夫を失い、たった1人の息子と離れなければいけなかった心境たるや…。
大壺屋で日本酒「大丸」を醸していた人たちもきっと大変だったはずです。
幼い助次郎に影響を与えた2人の大人たち
幼くして孤児となった助次郎は、栄村(今の住所でいう揖保町栄にあたるところではないかと思います)に住む実子のなかった寡婦(未亡人ですね)に引き取られ、愛情深く大事に大事に育てられたようです。
その当時の頃を助次郎さん(の話を聞いた包隆さん)はこう振り返っています。
父が漸く寺子屋に通ふ七八つの頃の記憶によると、その養母に伴はれて龍野の町に出た時、必ず如来寺の父祖の墓前に詣でて父の出世を祈念した後、横町に残れる豪壮なる生家の跡を指しつつ発憤奮起を促し、大に立身出世を祈つてくれたものである。かくの如き養母の慈愛と訓戒とは、子供ながらにも肺肝深く徹して早くも生家再興の志を樹て(たて)、日常の動作振る舞いなども自ら他の子供と異なるものがあったそうだ。
如来寺の面している旧横町は現在大手という地名になっており、
大手にはヒガシマル醤油の所有するうすくち醤油資料館、そしてその先に横山醇医院跡が並んでいます。
夫を失った女性が、家族と家すべてを失った幼子を育てる運命の出会い。
それは養母にとって心細くも、未来への決意と使命感を帯びて目に光を宿した日々だったのではないでしょうか。
悲運を背負って大人びていく少年の横顔、そして「坊ちゃん!あなたは必ず世に出て、横山の家再興を目指して下さいね」と肩に手を置き指を差して励ます母子2人の涙ぐましい背中が見えるようですね。。。
立派な人物のそばには必ず立派な女性あり。
残念ながらその女性のお名前は載っていませんでしたが、育ての母があっての助次郎さんだったのはきっと誰もが認めることでしょう。
もう僕の中では大河ドラマが始まっています。
さて、助次郎の身を案じるのは養母だけではありませんでした。
勢多巳之助(せた みのすけ)という大壺屋時代の杜氏が、助次郎を訪ねてやってきます。
亦其頃生家に恩顧を受けた杜氏の中に勢多巳之助と云ふ人があり、華やかなりし大壺屋の往時を忘れかぬるあまり、暇あらば幼き父の身を案じ訪ね来ては、懇(ねんごろ)に慰めてくれたが、父も長ずるに従ふて生家再興の念愈々(いよいよ)熾烈も加へ、細心の注意を以って世間の事情を知らんとする頃となつては、諸国の事情に精通せる杜氏勢多氏の訪問は、何よりも有益なる物語を齎す(もたらす)ものであつて、尚世間を知らんと欲する父にとっては、たしかに良き指針や暗示を與えて(あたえて)くれたことが多かった。要するに少年時代の父に對して、敬虔なる立志の動機を與えたものは、養母の誠心こめし薫陶と勢多氏の親切なる鼓舞激励の賜物とであった。
巳之助さんが訪ねては助次郎にたくさんのことを話して帰ったことが窺えます。
世の中のことをたくさん教えてくれる大人として、巳之助さんの話に身を乗り出し、一言も聞き漏らすまいとスポンジのように情報を吸収する助次郎さん(妄想してください)。
「なお世間を知らんと欲する」のはなぜでしょうか。
それは単に、お家再興のためだけではありません。
時代が、明治維新に突入したからです。
1868年、江戸が「東京」になりました。
助次郎さんは12歳です。
この3年後、助次郎15歳。
世が世なら元服の歳、少年から大人になることを許された男の一大決心がありました。
次回いよいよ助次郎、ビールへの道。
(つづく)
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