亡き父の「神へ捧げるソネット」という詩集を作る理由。そして自己紹介します。
遅ればせながら、自己紹介します。
noteで父の詩を発表しているとき、わたしは自分を「時空配達人」と呼んでいます(心の中で、です)。昭和の時代に父が書いた詩を、ときを超え、令和を生きるみなさんに届ける人だからです(笑)。
それから、えー、約半世紀、生きています。結婚してしばらくしてから夫の実家に入って四世代同居。育児&同居ノイローゼになりながらも、家事に育児に頑張ってきました。その辺りは話し始めたら愚痴も混ざりながら止まらなくなるので・・・またの機会とします。
ですがその間も在住外国籍のお子さんに日本語を教えたり、読み聞かせの活動に参加したり、上の子が生まれる前から始めた短歌を支えにして、なんとか自分と折り合いをつけながら生きてきました。現在はお茶と珈琲の企画&製造販売をする会社で、いつも良い香りに包まれながら仕事をしています。
この2、3年で義理の祖母が旅立ち、子どもたちが手を離れ、ようやく自分の時間が持てるようになりました。
20年程前に、わたしの父は亡くなりました。
父は5人の子どもたちをよく可愛がる人でしたが、入退院を繰り返すくせにヘビースモーカーで酒飲み。母にわがままばかり言う父を、わたしは中学生の頃から避けていました。大人になってからも、他の姉妹に比べ、あまりかわいげのある娘ではなかったでしょう。
家庭は貧しいながらも、父はわたしの大学進学を応援してくれました。まだ地方では女子の大学進学は珍しい頃でした。東京の大学で仏文学を勉強したかった父ですが、貧しい時代に夢は叶いませんでした。自分ができなかったことを娘に託したのかもしれません。父やわたしの望んだ大学とはなりませんでしたが、わたしは地方の大学を卒業させてもらいました。
父は亡くなる二年前に脳梗塞を発症し、当初は娘たちの顔もわからないほどでした。その後少しずつ、意識を取り戻し、リハビリで基本的な日常生活はできるようになったものの、言葉や文字を思い出すことが難しく、印刷の仕事は廃業。お酒を辞め、週2回のディサービスと母の作る食事だけを楽しみに暮らしていました。
木曽谷の山山や山に囲まれた狭い空、滔々と流れる木曽川、溢れそうなほどの星、虫や鳥たちの声、一本しかない国道を通る車の音、灰色の雪空、山から流れてくる用水。父が愛したもの達は、すでに父を見守ることしかできなくなっていました。
書き溜めていた詩集は、実は「神へ捧げる100のソネット」という題名でした。しかしソネットを100までまとめることのできないまま、父は歯がゆい思いでいたのでしょう。父は何が正解かわからないまま、動かない手で以前活字となった詩や、ほかの詩人の方から頂いた手紙のコピーをとって詩集をまとめました。そして印刷業で残った紙を表紙に使い、母に製本を手伝ってもらいながら、30冊の詩集を作りました。
わたしの手元には2冊残っていますが、表紙の色もまちまち、タイトルの文字もそれぞれ違います。けれど、当時の父の思いがたっぷり詰まっている詩集です。
わたしが手伝っていれば、もう少しきれいな詩集ができたかもしれませんが、そのころは二人の子どもの育児に家事に精一杯でした。
それから20年の歳月が経ちました。
わたしの人生が終わる前に、父の詩をもう一度詩集にしてみたいと思っていました。そのために、わたしにできることはなんだろうと考えていた頃、noteというプラットホームがあることを知りました。
そうだ!これだ!
読むことの好きな人たちが集まっているプラットホームなら、父の詩も読んでもらえるかもしれない。それをできるのはわたしだけだ!と思いました。
兄姉妹も協力するよ!と言ってくれました。この時こそは、令和ってサイコーだ!と思いました。
始める前は不安もありましたが、何より父の言葉を、詩を、いまを生きる人たちに知って欲しい。父はひとりでも多くの人に、自分の詩を読んでもらいたいと願っていたのだから、私の発表の仕方が多少、父の意図と違っていても、大きな肝は伝わるだろうと考えました。
それからできる日は毎日、少しずつ発表してきました。
「ほら、昭和の文学青年が訴えているよ!生きていることや私たちが生きるこの世界は、見方を変えればこんなにもキラキラしている。」
そう言いたくて、少しずつ発表が貯まってきました。
まだ活字にしていなかった父の詩のノートが、いまわたしの手元にあります。実家の兄が送ってくれました。そして分かったことは、父は認識障害の中でも、詩を書こうとしていたようだと言うことです。
神へ捧げる100のソネットが、100になることはありませんでしたが、父の大学ノートの癖字を、四苦八苦しながら活字に認めて、いま現在、もうすぐソネットは100を越えそうです。きっと父がこれはやめよう、と思った詩も、わたしが発表しちゃっているからですね。
でも、きっと天国で許してくれてると思います(思うしかないです、笑)。
生きていれば父は今年で九十歳になります。
昭和の文学青年の詩が、令和のみなさんの心に響きますように・・・。