マップ試論
吉本隆明と「地図」
評論家の村瀬学は吉本隆明を論じるにあたり、「地図」という言葉をそのまえがきに置く。正確には「地図とは何か」、という問いの先に吉本が現れたと言うべきだろう。ここでの地図とは人が生きていくための思考地図、哲学のことである。こう書けば、吉本が『共同幻想論』で展開した「世界を全体的に把握するヘーゲル的な全円性」(加藤典洋)、という比喩としての地図に聞こえるが、村瀬は「比喩として言っているわけではない」と、いう。事実、吉本は80年代に「地図論」という直接的な表題の論考を書き記している。
「世界視線」と「普遍視線」
「地図論」が収録されている『ハイ・イメージ論』(吉本隆明全集撰7『イメージ論』大和書房 )は、消費社会評価へと転向した、80年代の吉本の鍵概念である「世界視線」と「普遍視線」が提出された重要なテクストである。世界視線とは、「無限遠点の宇宙空間から地表に垂直に降りる視線」であり、普遍視線とは私たちが地表から伸ばす水平的な視線のことである。「地図論」では、このハイ・イメージに過ぎない世界視線の近似的モデルとして、航空写真と人工衛星ランドサットによる映像の考察が展開されている。吉本はそこで、二つのモデルに対して「外部」と「内部」に関する示唆的な指摘をしているのだ。
まず航空写真の場合、人工衛星と比べて高度がさほど高くないため、「ビルや住宅の外部と内部が区別された像」が現れる。換言すれば、航空写真的な世界視線は、建造物の外装(外部)に遮断され、内蔵された生活空間(内部)は不可視なものとして想像することは可能であっても、より細やかな人々の感情的営みに到達することは不可能なのである。次に、より高次な映像を表示する人口衛星ランドサットの場合、そもそも内部と外部と言う区別自体が消滅し、更には「内部という概念が一切崩壊」する。吉本はそれを「都市という地質層の新種」と言表した。そこでは、航空写真的な世界視線に於いては辛うじて想像可能であった人々の感情的営みなど、文字通りの「無」に等しい。人々の感情的営みは普遍視線に立脚せねば想定出来ないのである。
弁証法的「Googleマップ」
80年代に吉本が提出したイメージ論は、当時の先端技術を近似的モデルとして展開された。では、現代に於ける近似的モデルとは何か。それは「Googleマップ」である。周知の通り、Googleマップには地図、地形、航空写真の三つのモードがあり、衛星画像データには地球観測衛星であるランドサットからのデータが活用され、高精細な画像表示を可能としている。即ち、航空写真と人工衛星ランドサットを弁証法的に発展させた地図こそが、Googleマップなのである。
データベース化された都市
吉本がランドサット的世界視線から見出した「都市という地質層の新種」という表現は、逆世界視線的な連続性を持った生成観であるが、Googleマップ的世界視線から鳥瞰する都市は、そのイメージの様相を異にする。言うならば、「データベース的都市」である。
ここで、東浩紀の議論を応用したい。東によれば、近代を意味付ける「大きな物語」の共有化圧力が低下したポストモダンとは、データベース的深層とシュミラークル的表層との「二層構造」として特徴付られる。(『動物化するポストモダン』講談社現代新書) 以上をGoogleマップに敷衍するとどうなるか。まず、データベース的深層とはアプリを開いた時に表示される全体性、都市をスキャニングしたかのようなマップそのものである。そこには無数のユーザーによる観光地や商業施設へのコメントや評価が記述されており、シュミラークル的表層が形成されては、その書き込みはデータベース的深層へと即登録、反映される。多数の評価はネットワーク効果を波及させ、この再帰的な円環性が評価経済は駆動させているわけであるが、ここで吉本が提起した「内部」と「外部」の問題が立ち上がる。吉本は一貫して世界視線から内部(普遍視線、感情的営み)の崩壊を描いた。だが、Googleマップ的世界視線では、ユーザーの無数の評価と書き込が普遍視線として機能し、内部は過剰なまでに可視化されているのではないだろうか。
「アーキテクチャの絶対性」
Googleマップ的世界視線で回帰したかのように見える「内部」とは如何なるものか。その実情を分析するために、Googleマップのアーキテクチャについて思惟したい。まず、ユーザーの評価や書き込みによる「内部」は、「お気に入り」に象徴化され、マップ上に定位されている。私たちはそれらを目的地に設定し、アプリが演算した最短経路に依拠しながら都市を移動する。一見自由で快適に見える以上の行動様式は、Googleマップのアーキテクチャに強力に規定されているのだ。以下、駆け足で三点に要約する。
①:私たちが「お気に入り」に登録可能なのはマップ上で固有名を持った場所に限定されており、マップ上で固有名を持つとは、経済活動が行われる商業施設の左証である。
②:目的地≒お気に入り(商業施設)までの最短距離が演算された経路は自由なストリートなどではなく、①から自明な通り、経済合理性によって規定された生産過程、流通過程の別名に過ぎない。
③:①②を踏まえ総合的に判断すれば、Googleマップ的世界視線によって回帰した「内部」は、普遍視線から紡がれた感情的営みなどではなく、Googleマップのアーキテクチャ、評価経済的なエコシステムに駆動された脱主体的な表出結果に過ぎない。
以上から、Googleマップ的世界視線に於ける「内部」とは幻想に過ぎないと言わざるをえないだろう。消費社会論の古層に刻まれたボードリヤールを引くまでもなく、今日でも私たちの主体的行為は、自律的な高度資本システムの巨大な一過程に過ぎず、「アーキテクチャの絶対性」によって強力に規定されているのだ。その意味で、「内部という概念が一切崩壊」すると書き記した吉本はやはり慧眼であった。
私自身が目的である地図
世界視線と普遍視線が、理想的に交差しているかのように見えるGoogleマップは、「アーキテクチャの絶対性」によって私たちの行動様式を規定しているのみならず、恣意的にデータベースを取捨選択している。だが、私たちが感動したり、実存的な固有性が記述される場所は、マップ上で固有名を持つ「お気に入り」登録可能な商業施設だけだったろうか?名もなき街路や、褪せたベンチなど、無名なる場所や空間も含まれるはずだ。私たちの原像的な普遍視線が捉える風景とは、データベースの外部だと言ってよい。カントはこう述べている。
カントの目的の方式には、アーキテクチャに駆動された脱主体的な「ユーザーとマップ」の関係性ではなく、『私自身が目的である地図とは何か』、という問いが静かに帯電している。かつて吉本隆明がそれと対峙したように、この難解な問いに対する、新たなハイ・イメージへの思索を私たちは開始せねばならない。